ちびたま時代

2013年7月22日 (月)

ああ夏休み



自分では、全国共通語だと思っていたのに、まったく通じなかったものに
「まつばぼうき」がある。

松葉箒
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一般には「くまで」とか「竹箒」といわれる。

え~~~。マツバボウキって方言だったの?
お気に入りのへっぱくブログで調べてみた。

やはり、福岡でつかわれる言葉のようだ。

おたまたちの年代の博多っ子なら、この箒には思いいれがあるはず。
夏休みの40日間。朝6時になるとこの箒で町内を「はわく」(掃く)
後に知人にきいたら、「やった。やった」というので、ウチの校区に限ったことではなかったらしい。

一学期の終業式から帰ると、親にお金をもらって近所の雑貨屋さんに「まつばぼうき」を買いに行った。
自分の背丈よりながい箒を引きずって、子ども達は部伍会ごとに集まる、町内の決められた、あそこからここまでをみんなで「はわいた」

掃除が済んだらラジヲ体操。
6年生の班長さんに出席のはんこを押してもらって帰宅。そして、朝ごはん。というふうだった。

どんなに細い路地でもアスファルトになってしまった今では「はわこうにも、はわけない

丸永製菓・あいすまんじゅう
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数年前、CO-OP神戸のチラシでこれを見つけたときは、あまりの懐かしさに泣きそうになった。

あいすまんじゅう。あいすまんじゅう。
もちろん、注文した。

味もカタチも子どものころのままだった。
ただし、こんな箱には入っていない。一本ずつバラでサック状の紙の袋がかぶせてあり、駄菓子屋の店先のアイスボックスの中に、他のキャンディなどと一緒に無造作に入っていた。確か一本10円だったと思う。

調べてみたら、お菓子の世界コンテストである、モンドセレクション金賞を連続12年も受賞している商品だそうだ。ひぇ~~。

最近は人気の白くまシリーズが全国展開しているそうで、やるやん丸永製菓である。

まつばぼうきあいすまんじゅう

小学生・おたまの夏休みの思い出の品々です。

・・・・・・・・・・・

夏休みに入ったらしいが、子どもの声が聞こえない。

それもそうだ。
ご近所に子どもがいない。


 


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2013年5月25日 (土)

子どものころに・・



中学2年生のときだったと思うけど
学校で「狂言」を鑑賞しました。

当時の校長先生の親友が「狂言師」だということで、わざわざ京都から来てくださったのです。

体育館に入り驚きました。
そこは、いつもの薄暗くて油引きの床の匂いのする体育館とは思えぬ夢のような別世界でした。

本格的な立派な舞台にまばゆいばかりの照明。
生まれて初めてみる「華やかさ」でした。

わくわくした高揚感。お腹を抱えて笑ったこと。演目は「附子(ぶす)」

はっきり覚えています。

もうひとつは・・・「悪太郎」だったような・・・確かではありません。

23日に人間国宝の茂山千作さんが亡くなられました。
京都を本拠地とする狂言師で年齢から考えて「校長先生の親友」というのは千作さん(当時は千五郎)だったのではないかと思います。

戦後、狂言の普及のために全国の学校を巡られたと新聞で読みましたが、おたまが中学生のころは狂言は立派に再興されており、学校周りなどの時間的余裕はなかったはずです。

子ども相手なのに手を抜かず、本物の舞台を見せてもらったこと、
そして、その華やかな舞台に感激したこと。

今のあたくしの「歌舞伎好き」の遠因はここかもしれません。

「子どもなのに本物を見せて(聴かせて)もらった」経験がもうひとつあり、それは朝比奈隆の大フィルです。

高校のオリエンテーションってやつです。
大阪に本格的なコンサートホールは一箇所しかありませんでした。
最近、改装されたフェスティバルホールです。

申しわけありません。
ビートルズにうかれていた高校一年生には退屈でした。
引率の先生が嘆き倒してはったけど、全員寝てました。

オトナになってからクラシック好きになるのですが、たぶん朝比奈隆の影響ではないと思います。

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子どものころに「感激」をいっぱい経験しておいたらいいですね。
感受性の豊かなうちにね。

と、申し上げたい。

読書でも音楽でも絵画でもきれいな景色でも花でも

言うても子どもはこんなブログ読んでないし、

読者諸兄諸姉には、今更遅いんやけどね。


 


 

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2013年4月 2日 (火)

切なさと心細さと



グッ坊を見ていて思うのだが
人間が最後に獲得する感情って何だろう。

彼の目の前にスプーンを持っていくと大きな口をあける。
もぐもぐ食べては、にこにこ笑う。
ベルトで固定された椅子ごと持ち上げるような勢いでピョンピョン跳ねる。
両手両足をバタバタさせ「喜ぶ」

ママが余所見をしていたり、おしゃべりをしていて、スプーンの運びが遅れると、「ガー」とか「アー」とか言って「怒る」

自分自身の感情の中で「切ない」と思った(たぶん初めての)日のことを覚えている。

123_copy

担任が男の先生だったので4年生のことである。
その日は遠足だったが、あいにく途中から雨が降ってきた。

雨宿りと昼食のため、近くにあった大学の講堂を借りることになった。
担任の先生の母校だそうだ。
福岡学芸大学(現・福岡教育大学)。

先生の年齢から考えると前身の師範学校を卒業されていたのかもしれない。

私たちは木の長いすにお弁当を広げた。
正面の舞台で、男女の学生が演劇の稽古をしていた。
なにか、深刻なお芝居だった。標準語を使っていた。

其の時の気持ちをどう表現したらよいのかわからない。
「切ない」というのが一番近いと思う。

ああ、自分もいつの日か、あんな大きなお姉さんになるのだろうか。
あんなふうに、博多弁ではない言葉をしゃべるのだろうか。

それは、切なさというより、自分の未来に対する心細さのようなものだったかもしれない。

 

同じような頃だったと思う。
千代町の電停で市電を降りるとき、前にいたお姉さんのかごのようなバッグの中から「週刊雑誌」が覗いていた。(日本の女性週刊誌の創刊は1957年だそうだ)其のことが、わたしの胸を切なくさせた。理由はたぶん上と同じ。

また、ある時、友人三人でバスに乗った。後部座席に大学生のお兄さん、お姉さんがグループで座っていて、ひそひそと我々小学生の値踏み(?)が始まった。会話の中に「エキゾティックな顔立ち」という言葉がでた。それは、ナオミちゃんのことなのだけど、アタシはずーっと「エキゾティック」のことを考えた。
自分もおおきくなれば、そんな難しい言葉を使えるようになるのだろうか・・
胸が締め付けられるように切なかった。

この、三つのできごとは、なぜだか、いつまでも覚えている。

それなりの年頃になった頃、
自分が思い描いていたお姉さんではない
あまりの幼さにがっかりしたものだ。

ワンピースの裾をふわっと広げ、横座りする
そんなエレガントのかけらもない娘になってしまった。

調べてみたが学芸大学は現在の、九州大学、箱崎学舎にあったようだ。
あの日、どこへ遠足に行く予定だったのだろう。


 


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2013年2月24日 (日)

猫の恩返し



泥棒をした見たことが三回ほどあります。

「見た」というのは遭遇したということです。

二回目の時のハナシです。

あたくし、それはそれは可愛らしい小学三年生でした。
ミーコという茶白のきじ猫を家で飼っていました。

思い起こせば、この38年(ウソやで)の生涯のなかでもベスト3に入るくらいの嬉しい日というのが、このミーコが家にやってきた日です。
学校から帰ると母の膝の上に子猫が乗っていたのです。
えっ!えっ!えっ!飼うの

あのときの嬉しさは今でも思い出せるくらいです。

ミーコはとっても賢い猫で、襖も障子もちょちょいと開けるのです。
さすがに、閉めることはしませんが・・・

それを、家の者に言っても信じてくれません。
子どものころのおたまは、今では信じがたいのですが癇症なくらい「うそをつく」のが嫌いだったのです。
たぶん嘘はついていたと思うので正確には「嘘つき」と言われるのが嫌いだったのです。

で、四畳半の自分の部屋でミーコといつも一緒に寝ておりまして、ある日の夜中の出来事でございました。

ふぎゃ~~

ただならぬミーコの鳴き声で目が覚めました。
何気に見上げると
ふすまを少し開けて
坊主頭のようなデカイ男の人が立っていました。

ふぎゃ~~(←これは私の声ね)誰かいる~~

と叫びました。
隣室で寝ていた親が電気をつけて飛び起きてきました。

ミーコの鳴き声やドタドタ走る泥棒の足音を聞いていたはずなのに、親たちは
おたまが「寝ぼけていた」と結論付けさっさと寝てしまいました。

泥棒さんが戻ってくるのではないか・・と思い
その後の恐ろしかったこと!

それにも増して、信じてもらえなかったことが信じられなかったのです。なにしろ嘘つきは大嫌いですから。

でも、そこは子どものこと、ミーコを抱っこして又、しらんまに眠ってしまったようです。

翌朝、廊下にも別の畳の部屋にもおおきな靴の足あとが発見されました。
お勝手口から侵入したものの、ミーコのただならぬ鳴き声に泥棒は怖気づいたようでした。

この証拠の靴跡により、泥棒被害を防いだミーコは功労の何か魚をもらいました。
私も、寸でのところで嘘つきの汚名を着せられるのを免れました。
ミーコが名誉回復してくれたのです。
ふすまや障子を開けてミーコが出入りするという事実も認めてもらいました。

2月22日は「猫の日」だそうで、
賢かったミーコのことを思い出して、ちょっと書いてみました。

懐かしいミーコ
あれから、何匹かの猫と一緒に暮らしました。
名前はだいたい「ミーコ」でしたが後になるほど一筋縄ではいかない性格でした。

私も、結構、嘘が好きな人間になりました。

泥棒を見た。・・・あと二回はまたいつか・・
嘘とちゃうで!

 

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2012年10月 5日 (金)

玉手箱の中身②



プレゼントをしたコチラは覚えていないのに、いつまでも大切にしてくれていて感激することがあります。

十数年ぶりに神奈川から帰ってきた京子ちゃんが、
「コレ、19歳の誕生日におたまちゃんに貰ったんやで」と、すっかり二重になったアゴを振りました。
プラン、プラン。
イヤリングが光っていました。

エエ、センスしてたんやなあ・・(おたま、心の声)

それにしても19歳です!
29歳でもなければ、39歳でもない・・・
嬉しいことです。

プレゼンター冥利につきます。

ああ、それなのに。それなのに・・

050_copy
玉手箱の中に入っていた
手作りのペンケース

いつ、誰にもらったのか全く覚えていましぇ~~ん

フェルト地に丁寧なアップリケ。
お花の真ん中はビーズで止めてあります。
裏にはピンクの刺繍糸であたくしのイニシャルが。

こんな女の子らしいことをする友達がいたっけ???

さて、授業中のメモ。出てくる出てくる・・
も少しお見せしやしょうかね。
写真はクリックで拡大できますが、そこまでして、真剣に取り組んでいただかなくても、ようございます。
お気楽にご覧下さいませ

013_copy これは、作者名が書いてあります。
Tちゃんです。

 

「おたまちゃんに送る十章」

 

005_copy キサブローというのは「ちびまる子ちゃん」で言えば、「藤木」みたいな男子。

 

 

 

006_copy 出た!
あこがれのSYさま。

 

T.Tって作者。

 

じこつ(自惚れ)

 

007_copy_2 谷村さんは「ちびまる子ちゃん」でいえば野口さんみたいな人でした。

 

3日に一度。面白いことをいう。

 

008_copy 授業料納付書やん!
これ・・・

 

実寸(13×6.5)

 

¥720やて・・

 

修学旅行積立金
¥1000
1_009_copy

 

 

 

 

 

 

 

ねんねこ!

時代を感じます。

010_copy 早っ!

 

もう、十章。

 

野末陳平・・

 

 

この玉手箱、まさにタイムカプセルみたいでした。

ウチラ。ほんまにアホアホしく生きてたわ

さ~て。処分するか!

 


 


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2012年10月 4日 (木)

玉手箱の中身①



では。フタをあけて15歳のおたまにタイムスリップ!

ウチラってホンマに・・
アホアホしく生きてた。

・・・・・・・・・・

玉手箱の中からでてきたものは・・

授業中に、廻ってきた「メモ用紙」でした。

021_copy_2
現代国語の授業中だったのでしょう。
教師のアダナは「骨(コツ)」又は「現骨(ゲンコツ)」

023_copy
伊藤左千夫が授業で取り上げられていました。

先輩のS・Yさまはクラスの女子全員の憧れの君。
メモが廻るたびに
○○さんのところが 書き換えられています。

シミチョロ・・死語です。

上の作者は不明。
マイナス・・云々は懐かしいセツコの字です。
下の作者は「愛ちゃん」。
しょ~も無い一言と署名があります。

力作(?)がまだまだあります。
又、写真を撮ったらUPしましょうかね。

メモ類以外では

052_copy 全国高校野球選手権大会・大阪大会
参加賞のバックル

朝日新聞社の中に「高野連」があって何度か行きました。
古くて汚かった。

053_copy 「旺文社賞」の文鎮。

054_copy

セルロイドの入れ物の中にマリア様の御絵
(20×30)
ここらは、ちょっと少女っぽいよね。

ああ、面白かった。

まさか、こんなものが出てくるとは・・・

この「おたまのブログ」を始めて間もないころに
「愛ちゃん」について書いたことがあります。

いやもう・・ほんまにおついでがあれば・・

メチャ、お時間があれば・・
覗いてやってください。



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2012年9月17日 (月)

桂三枝



お手洗いから廊下にでると、一人の男性が前に立ちはだかりました。
右へ移動すれば右へ。
左へ行けば左へ・・・。

女の子への、ベタなちょっかいの出し方です。
顔をあげると、藤色のジャケットを着た

桂三枝でした。
当時、「ホネホネ」というニックネームでした。

場所は、大阪は千里丘にあった毎日放送。
女の子は、そう、まぎれもなく「女の子」だった、おたまです。高校生でした。

「歌え!MBSヤングタウン」というラジオ番組が始まったばかりで、その夜の放送の分を夕方に公開録音をしていました。
友人のセツコのその又友人(他校生)が、番組司会者である斉藤努アナウンサーの熱狂的なファンで、私達もよく毎日放送へ遊びにいきました。

3時05分に授業が終ると、制服のまま電車、バスと乗り継ぎ、国鉄(当時)吹田か千里丘の駅から毎日放送のバスに乗り込みました。

中高生のリスナー50人ばかりが、一室に集まるのですが、放送局の機材や雰囲気やゲストでやってくる、ゲーノージンが珍しく、わくわくしました。

三枝さんは、当初、月曜日だけの出演でしたが、斉藤アナが甲子園の実況で忙しくなるとかで、他の曜日も任されていくようになりました。
当時、無名で「どうも、関大のオチケン(落語研究会)の人らしいで」ということでした。

(ほんまのとこは、既に文枝師匠に弟子入りされていました)

アノ頃は、落語ブームで、どの学校にもオチケンがありテレビの素人参加番組に友人が、ようでてましたな・・。
おたまは、小米さん(後の桂枝雀)のファンでした。

その後、この番組は人気がひろまり、公開録音もハガキで申し込むようになっていきますが、それでも、開始から一年ばかりはブッツケで入れてもらったような記憶があります。

フォーク全盛期で、この番組からプロになった人も多いです。
ロックキャンディーズ・ウッディウー・ジローズ・・・
みんな学生でした。
ケメ子の唄のザ・ダーツは当時高校生じゃなかったかなあ・・。
ウッディウーの「今はもうだれも」はロックキャンディズの谷村新司がリリース。
アリスのデビュー曲となりました。

番組の放送開始から一周年を記念して、難波の体育館で、「ヤンタンフェスティバル」が開かれました。
たぶん、セツコが手配してくれたのでしょう。
古くて、汚い「大阪府立難波体育館」にいきました。

これが、後のテレビ番組「ヤングおーおー!」の原型になったと思っています。

その中で、桂三枝さんが「落語」を一席なさいました。

もう、本当に気の毒になるくらい、だ~れも聞いていない。
中高生は、残酷です。
面白くなければ、騒ぎ出す。

ネタは何だったか覚えていませんが、私語と野次で、騒然としたなかで、「三枝、可哀想過ぎるな・・」と話したのをおぼえています。

その、三枝さんが大名跡六代目桂文枝を継がれ
今朝の新聞のテレビ欄には

天下の「NHK」で8時15分から11時まで、2時間45分もの特別番組です。

落語家の襲名は芸風の踏襲ではないというのはわかっていますが、先代のはんなりした、語り口を知る人は、あの、味わいのある色っぽいおかみさんをどこぞの、どなたかが、引き継いでくれてはいまいか・・と思うものです。

三枝さんしかできない、三枝さんの新作を培われた努力は凄いとおもいます。
それも、すべて、アノ日の難波府立体育館から始まったのではないかと・・・
ま。言い換えれば、大騒ぎしていた我等中高生が育てたんや!

 

なんてね。

 

しかし、エライ昔の話になったんやねえ・・


 


 

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2012年9月11日 (火)

ダッコちゃん



暮らしを楽しむとは、どういうことでありましょうか。

それは、アート

アートでっせ。お分かりですか?

Ako015_convert_20120911224305_cop_2 情けない、ダッコちゃん
では、ありません。

アートです。

「call」とあるからには、
何か使途があるらしい・・

叩いたり、押したり、してみる。
結構、硬質。

電線みたいなのがつながってるんだけど・・

・・・・・・応答ナシ・・・

ダッコちゃん
フラフープとダッコちゃんって、どちらが先に流行したのかしら。

別に、欲しくもなかったけど(いや、欲しいって言ったのかな)黄色いフラフープを持っていました。
大人も子どもも、腰をまわしてました。

そのうち、「腸ねん転」になるという噂(?)が立ち、だれもフラフープを廻さなくなりました。(以上、おたまのご近所での話しだから、事実誤認があるかもしれません)

ダッコちゃんは、別に欲しくもなかったけど(いや、欲しかったのかな)
ひろちゃんが、まず買ってもらいました。
でも、そのダッコちゃんは、ウィンクしないダッコちゃんでした。
(ダッコちゃんの実物をご存知無い方には分かりにくい話でしょう?)

で、母が呉服町の博多大丸に2時間並んで買ってきました。
おたま’Sダッコちゃんはウィンクもしたし、定価の180円でした。

うどんが40円くらいの時代なので、今の価格で2000円くらいするのかなあ。

流行にダッコちゃんが追いつかなくて、バッタモン(まがい品)が出回っていました。それは、もっと高価で、おまけにウィンクしませんでした。
ひろちゃん一家はつかまされたのです。

さすが、デパートは正しい商売をする!

と、子ども心に思ったものです。

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この、おうち

小ネタ・パラダイスとちゃうよ・・・

ひろちゃんの家じゃないけど
絶対、ダッコちゃんに思いいれのある方が住まわれてるって睨んでます。

(ひょっとしたら、ドンガバチョも・・)

でもね。このダッコちゃん、ヤケに重い。
どうも、ボーリングの玉でできてるみたいです。

ああ。ダッコちゃんの説明の途中でしたね。

ビニールをぷーっと膨らませたお人形でね、
それを、二の腕に抱きつかせるの。

だから、何?

お尋ねになるのね?

だから・・アートやねん。

で、若いお姉さんが街を闊歩していました。

アートやったなあ・・



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2012年5月 8日 (火)

もう大丈夫



私は、なんだか、歯の強い子どもだったらしくて、生まれて初めて歯医者に行ったのは17歳の時でした。

子どものころから、歯医者は恐ろしいところだと思っていました。

虫歯の子は「夏休みのうちに歯医者さんに行きなさい」っていうプリントをもらいます。
終業式の帰り道、博ちゃんと信ちゃんはプリントを破いて川に流しました。
悪い奴やで、ほんま。

虫歯のない、真面目な良い子だった、私は
もう、どきどきしちゃって、
「親をあざむくくらい、歯医者というのは恐ろしいところだ」と思いました。

どういうわけか、それでも博ちゃんに、歯医者の前までついていったことがあります。三周くらい外をぐるぐる回ってから博ちゃんは中に入っていきました。
背伸びをして窓から中を覗きました。
先生がおでこに丸い鏡のようなものをつけておられました。

あれは・・なんだ!
あそこから光線がでるのか!

そんな具合ですので、17歳で初めて歯医者に行った時それは緊張していたのでしょう。

治療の途中で先生が
「あんた、歯医者に来るの初めてか?」と訊ねました。
げ。なんでわかるんやろ・・。

「そんなに、おおきく目を開かんでもエエがな」
と言って、笑いやがった。笑われました。

なぜか、研修の先生の卵みたいなのが二人いて、三人で笑いよりましてん。
失敬な人らやでほんま。

「コレ、乳歯やな」

虫歯になっていたのは、乳歯だったらしいです。
17歳まで乳歯やったやなんて、メチャ恥ずかしい。

で、そんな、エエ歳まで永久歯が生えてこないのは、もう生えてこないっちゅうことなんやね。

今でも、うっすら、期待しているけど生えてきません。
(欠損)ということで、適当に体裁を繕った口の中です。

今日は、歯医者に行ってきました。

隣のブースから、やさしい、やさしい声が聞こえてきます。
「○○クン。えらいね。強いね。ホラ、もう終ったよ

別に、ああいうふうに、励ましてもらわなくても、全然羨ましくないもん。

もう、慣れたものです。

 


 


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2012年4月 2日 (月)

夜汽車②



民俗学者、宮本常一の本のなかに、中国地方の山間部に住む少女が「あの山の向うには何があるのだろう」と、ずんずんずんずん歩いて初めて海(日本海)を見る。という話があるのですが、生まれた土地から一歩も出ず、そこで生涯を終えるというのは、比較的近代まで、ふつうのことだったようです。

見知らぬ土地は人間にとってあこがれなのです。

私もよく旅をしていたですよ。
「往復新幹線・ホテル込み格安パックでディズニーランド」などというものではなく、自分達で旅程を決めて時刻表片手に・・という旅でした。

もう、ほとんど忘れかけているけど、
日本で一番高いところにある国鉄の駅を通ったので、それは信州の旅だったのでしょう。
2.3泊して大阪に帰ることになりました。
友人の、みっちゃんは時間が自由になる人で、東北を一週間くらい掛けて回ると言って、どこかの駅で別れました。

私は、寝台特急(ブルートレインなんて言わなかったぞ)に乗るべく、フォッサマグナに添って北上したのです。

列車のトラブルがあって、乗り継ぎの「日本海」が遅れました。

どこかの駅でポンと降ろされ「日本海」の到着を待つことになりました。

たぶん、糸魚川の駅だったとおもいます。
ウンにゃ。富山駅だったかな。

深夜のホームは人もまばらでした。

わたし以外に、一人の女性と二人の男性がいました。
この人たちは一緒に旅をしているようでした。
男性はお揃いの光る生地の紫(紫色です!)のジャケットを着ていました。

明るい声で私に話しかけてきました。
「漫才師」だといいました。

MANZAIがブームになるのは1980年のことだそうで、この話はその、もっと前のことです。

「僕達のこと知ってる?」
「見たことある?」

掛け合いのように訊ねられたけど・・・・
あいまいな返事の出来る大人にはまだなっていなかったし、でも、「知らない」ことを「知ってる」とは言えないし・・・・

ベンチに腰掛けている女性と目があいました。
その人は微笑みました。

きっと、小さな店で歌っている人なのだと思いました。
足元にトランクと化粧鞄のようなものがありました。

綺麗な人。
染めた髪が哀しくて、孤独な感じの人でした。
旅をしているというより、やさぐれているといった風情で・・・

その後、「男はつらいよ」のリリーさんを見たとき、このお姉さんを思い出しました。
浅丘ルリ子のりりーさんは秀逸だとおもいます。

ああ、こんな人、本当に居る。
本当にいた。会った事がある。と思いました。

より早く、よりきちんと交通手段が確保できるようになって、道中のハプニングやトラブルに出会うことが少なくなりました。
サンドイッチ食べて、缶ビール飲んだらもう、東京です。
誰とも、おしゃべりもせず・・・

「旅情」を旅の道中で得ることが難しくなっています。

 

「人は到着のためにではなく、旅のために旅をする」
ってゲーテか誰かの言葉です。
ゲーテに言われなくても、そう思うな。


 


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