自句自解346 教会の書架・・
教会の書架に歎異抄あり涼し
(きょうかいのしょかにたんにしょうあり すずし)2010・7月
マザーテレサが来日された際、宿泊された教会が宝塚にあり
その教会は句仲間のS郎ちゃん一家が熱心に通う教会でもありました。
その教会の小さな図書室の棚に「歎異抄」を見つけました。
歎異抄は鎌倉時代のおわり、今から800年の昔に親鸞聖人のお弟子さんによって書かれたものだそうです。
師の教えがここにあるとするじゃない?
で、ここに100人のお弟子さんが居るとするでしょ
師の言葉は一つであるはずなのに100通りに受け止められる。
解釈のひろがりは本来の教えから離れてゆく
それがどんどん広まると、「え~、そんなこと聖人様は言うてはった?」となる
そらあかん。あきません。そんなこと言うたはらしません
と異を唱えたのが「歎異抄」だそうです。
800年もまえにボイスレコーダーもないしね。
もし、自分の言いたいこと(教え)が曲げて受け取られて広まっていたら、そらあ親鸞さん嘆かはると思いますわ。
「はじめに言葉ありき」と始まる聖書はどうなんやろ・・
子どもの頃教会で聖書のお話をいっぱい聞いたけど・・・ほぼほぼ、忘れてる。
うち、浄土真宗やけど、どんな教えなのか・・よう知らん(;^ω^)
こんな感じでAFOのまま死んでいくんやわ。あたし・・悲しい・・
俳句の紹介するつもりが、悲しい話になってしもうた。
季語・涼し(三夏)
季語「涼し」は季節感としての涼しさだけではなく
心の透明感。澄んだ感じを表す。
キリスト教の教会に仏教の本があった。外国語の難しそうな経典に挟まれた「歎異抄」
宗教の懐の深さにちょっと「涼しさ」を感じました
って、わかっていそうなことを言うてしもた((*ノωノ)
書架・・本棚
ほな。
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自分の覚え書きです。
2022秋
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コメント
母の中で何があったのかわかりませんがとても熱心な仏教徒でした。産んだ子の半分を亡くし心のより所としてすがったのかもしれないと思いますが私の記憶にあるのは何時も母の傍にあった「歎異抄」です。亡くなった後少しは父からの遺産もあった筈と俗気にまみれた娘の私が知ったのは全てをお寺に寄付と言う事でした。亡くなる少し前義姉が何かつぶやいてる母に「苦しいですか?痛み止め打ちますか?」と聞いたところ「これから向こうに行くので今お念仏を唱えてた」と。母らしい旅立ちと思ってます、私は何事も足元にも及びません。宗教とは本来懐の深いものと思います、それなのに信じてるものが違うと言って戦う、この状態は未来永劫続くのでしょうか、何のための宗教でしょうね。
投稿: パコ | 2024年7月13日 (土) 22時47分
★パコちゃんへ
パコちゃんのお母さまはきっと「内省」の出来る方だったのでしょうね。
親鸞の教えは他力です。阿弥陀様に己をゆだねる
方法としてお念仏を唱える。
私の考えですが「ナンマイダって言うときゃエエねんでという教えこそ他力の神髄で、人はなかなかそこまで到達できない。なぜなら愚かだから、己を手放せないからです。私は念仏=何も考えない。己をなくす。何もない事を知る。何もない事こそがそこに「ある」
という事ではないかなと感じています。
偉いお方がきいたら笑われると思いますがそう思います。
パコちゃんのお母さまはきっとそこ(知るところ)まで行かれていたのでしょうね。
宗教を持たない自分としてはうらやましいです。
クリスチャンの友人に「なぜ人は戦争をするのか」と訊いたことがあります。答えは
「分かち合わないからよ!」
明解でしよ?
投稿: おたま | 2024年7月14日 (日) 08時37分