片想い
もう1年も前に、べべちゃんが置いていった東野圭吾の「片想い」という本。
ミステリー小説はほとんど読まない・・・って放ってあったのに
食わず嫌いはいけませんね。
何気なく手にとってベッドに入ったものの面白くて
「今年の目標10時半に就寝」の禁を破り読みふけってしまいました。
さらに五時半にめざましをかけて続きを読む・・
人は自分の好むと好まざるとにかかわらず生物学的に「男」「女」に分かれ、この世に生を受けるわけで、大多数の人は自分の性を受け入れて生きてゆきます。
ところが、自己の持つ染色体ではない方の「心」を持った人もいるわけです。
重要なキャストとして男性の心を持った女性が登場します。
小説では、この性同一性障害(障害?)に加え同性愛者。さらに半陰陽(両性具有者)にも触れられますが、読みすすむにつれて
「男だって女だっていいじゃない!」
という、思いが強くなりました。
本の中でも「人間の中には男の要素。女の要素が混在し、その割合は時によって、または相対する人によって流動的だ」みたいなことが書かれています。
肉体と精神が一致しない悩みや苦しみの分からない者が軽々しく言ってはいけないかもしれないけど、男だから、女だからという社会的な見方に自分の価値観をあわす必要なんてどこにもないと思います。
いわゆる、オネエ系キャラの方がテレビに出ておられます。
人によりますが、ソレ(しぐさ。ことば。服装)を女らしさだと、自分が捕らえられているのだとしたら「女がみんなそうじゃねえよ!」と言いたくなります。切なくなります。
そのような人たちがメディアに登場できる世になりましたがそれは、水商売やエンターテーメントの世界で生きる、ごくごく一部の人たちです。
逆にいえば、そういう(目立つ)人しか表に出ることの出来ない社会です。
話はすごく飛びますが、ヴァイツゼッガーの「荒れ野の40年」のなかで同性愛者に呼びかける部分があります。
当時(若い頃)同性愛に悩む友人がいたので、ドイツ(ヨーロッパ)と日本の大きな認識(社会的な熟成の違い)に驚いたものです。
本の中に半陰陽の女子高校生が登場します。
子どものころの知人の知人と話が重なりました。
職場のお風呂に一緒に入っていたのよ。
年頃になっても月のものがこないので悩んでいた。
おたまより二周りほど上の世代の方だと思いますが、オリンピック候補生になりセックスチェックでそれ(半陰陽)がわかりました。
大阪に来て、高1の生物の授業で両性具有者の話になり、その人の名前が出ました。
小説の女子高生は「男」であることや「女」であることの前に「自分であること」
を大切に生きようとしています。
悩み抜き苦しみぬいた人の結論というより、自分そのものを受け入れることで自己の確立を果たせるという最短距離を知っている、賢い人だと思います。
自分を知らなければ、自分を愛していなければ、このような結論に達することはできない。
性同一性障害の人たちの中には手術やホルモン注射をして自分の性を獲得したい人がいます。
小説の中の人(先に述べたメインキャスト)は、書かれてはいませんがきっとこの先、障害に悩みながらも、ありのままを受け入れて生きていくような気がします。
男らしく。女らしく。
小説の本筋から離れ、この部分(性同一性障害)の感想ばかりになりましたが、もちろんストーリーも面白かったです。
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