書籍・雑誌

2013年3月24日 (日)

片想い



もう1年も前に、べべちゃんが置いていった東野圭吾の「片想い」という本。

ミステリー小説はほとんど読まない・・・って放ってあったのに
食わず嫌いはいけませんね。
何気なく手にとってベッドに入ったものの面白くて
「今年の目標10時半に就寝」の禁を破り読みふけってしまいました。

さらに五時半にめざましをかけて続きを読む・・

人は自分の好むと好まざるとにかかわらず生物学的に「男」「女」に分かれ、この世に生を受けるわけで、大多数の人は自分の性を受け入れて生きてゆきます。
ところが、自己の持つ染色体ではない方の「心」を持った人もいるわけです。

重要なキャストとして男性の心を持った女性が登場します。

小説では、この性同一性障害(障害?)に加え同性愛者。さらに半陰陽(両性具有者)にも触れられますが、読みすすむにつれて

「男だって女だっていいじゃない!」

という、思いが強くなりました。

本の中でも「人間の中には男の要素。女の要素が混在し、その割合は時によって、または相対する人によって流動的だ」みたいなことが書かれています。

肉体と精神が一致しない悩みや苦しみの分からない者が軽々しく言ってはいけないかもしれないけど、男だから、女だからという社会的な見方に自分の価値観をあわす必要なんてどこにもないと思います。

いわゆる、オネエ系キャラの方がテレビに出ておられます。
人によりますが、ソレ(しぐさ。ことば。服装)を女らしさだと、自分が捕らえられているのだとしたら「女がみんなそうじゃねえよ!」と言いたくなります。切なくなります。

そのような人たちがメディアに登場できる世になりましたがそれは、水商売やエンターテーメントの世界で生きる、ごくごく一部の人たちです。
逆にいえば、そういう(目立つ)人しか表に出ることの出来ない社会です。

話はすごく飛びますが、ヴァイツゼッガーの「荒れ野の40年」のなかで同性愛者に呼びかける部分があります。
当時(若い頃)同性愛に悩む友人がいたので、ドイツ(ヨーロッパ)と日本の大きな認識(社会的な熟成の違い)に驚いたものです。

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本の中に半陰陽の女子高校生が登場します。
子どものころの知人の知人と話が重なりました。

 

職場のお風呂に一緒に入っていたのよ。
年頃になっても月のものがこないので悩んでいた。

 

おたまより二周りほど上の世代の方だと思いますが、オリンピック候補生になりセックスチェックでそれ(半陰陽)がわかりました。
大阪に来て、高1の生物の授業で両性具有者の話になり、その人の名前が出ました。

小説の女子高生は「男」であることや「女」であることの前に「自分であること」
を大切に生きようとしています。
悩み抜き苦しみぬいた人の結論というより、自分そのものを受け入れることで自己の確立を果たせるという最短距離を知っている、賢い人だと思います。

自分を知らなければ、自分を愛していなければ、このような結論に達することはできない。

性同一性障害の人たちの中には手術やホルモン注射をして自分の性を獲得したい人がいます。

小説の中の人(先に述べたメインキャスト)は、書かれてはいませんがきっとこの先、障害に悩みながらも、ありのままを受け入れて生きていくような気がします。
男らしく。女らしく。

小説の本筋から離れ、この部分(性同一性障害)の感想ばかりになりましたが、もちろんストーリーも面白かったです。

 


 


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2013年1月 8日 (火)

本をよむ



昨年の目標を見事!二割四分も達成致しましたので
本年度はかてて加えて
(この「かてて」というのは望ましくない状態のことを言うらしいです。ぷぷ)

12件に増やしましたのよ。

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なかでも今年は、新たに「本を読む」を入れました。
どうよ!出来そうでしょ。

読みたい「候補」はいっぱいありますねんよ。

後は、図書館に行けばいいだけやね。
買わないから。
図書館に無い時は、カウンターのお姉さんに「買って!」といえば意外に素直に買ってくれますねんよ。住民税払ってるからね、それくらいは、おねだりしてもいいと思いますねん。

もしも、貴方が無人島に一冊だけ持っていけるとしたら・・・
というアンケートをやっていました。

「聖書」や「サザエさん全巻」に混ざり堂々のベストテン入りした中に

「邪宗門」高橋和巳著

がありました。
おそらくは、我々世代の支持が多かったのでしょう。
あたくしも若き日に読み、そして何十年も経ってから読み返したことがあります。

どうしようもない現実から希望を見いだすとは・・
組織を作って変事を目指すとは・・

時代に受け入れられた「本」でした。
挫折という痛みを伴って。

一昨日の日曜日。夜10時からEテレで「日本人は何を考えてきたのか」という番組がありました。
その回は「大本教・・民衆は何をもとめたのか」というテーマでした。

NHKスペシャル「香川照之・密着300日」をあきらめて(ウチ、録画機能がありませんねん)それを見ました。

「大本教」・・貧困の中から生まれた民衆宗教のひとつ・・・は「邪宗門」のモデルになったといわれています

JR亀岡駅は今でこそ可愛い駅舎に生まれ変わりましたが、今でも背後には果てしない田が広がり、正面には幼い主人公が見たであろう城の石垣が残っています。

もちろん、実際の大本教の歴史と小説「邪宗門」は全く別のものなのですが、
国家による「弾圧」の考察など大変興味深かったです。

で、再・再度読み返してみようか・・なんてね思っています。
ま、二割四分の達成率やからね
どうなるかわかりません(おおいばり)

 

テレビを見終ったら、11時半やおませんか!

あかんがな。

今年の目標の第一は

 

10:30に寝る  やのに・・・

 


 


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2011年9月12日 (月)

心に赤いバラ



中島らもの「今夜全てのバーで」やったけ・・
別のエッセーみたいなものだっけ・・忘れたけど・・・

らも氏が友達の話でいたく感動して、そのはなしを読んだ私も、すごく感動したんやけど・・・ったって、わずか30歳半ばだったからそんな感性が残っていただけかも知んないけど・・・

話というのは

大阪で付き合いのあった知人が、急に東京に引っ越すっていいます。
仕事の事情でもなければ、家の都合でもなく、ただ、「東京で暮らす」っていうねん・・。仕事を投げ出して。

聞けば、好きな女性が東京に行っちゃったんやて。
彼女は、結婚のために行ったのかも(そこらへんの事情は覚えていないのだけど)しれないし、彼とよりをもどすことは絶対絶対ありえないし、居場所もわからないんやけど・・・・

自分が東京で暮らすということは、
「ああ、この空のどこかに彼女が住んでいる」と思うことやねん。

雨が降るとするでしょ
「ああ、この雨に彼女も濡れているのだ」と思うことやねん。

それだけで、いいんやって。

わからん?

キショイ?

面倒くさい?

そんな人に「恋」を語る資格はないね。

今、JAPANにヨン様がお出でになっていますの・・。

ヨン様と同じ空の下にいると思うだけで、生ビール、ジョッキ3杯くらいはイケル。

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あっ。おたまのことじゃないで。
知り合いのことです。

サンティグジュペリの星の王子さまも言っています。
今、ボクの花がどこかで咲いていると思うだけで、この星が幸せに満ち溢れるんだって・・。

そうか。そかそか。

本日、散々、ヨンさまの話を聞かされ、
「恋するってアホ幸せやなあ」としみじみ思われたことでありましたよ。

でも、ぜーんぜん、うらやましくないもん。

ヨンさま無しで、ジョッキ4杯はイケルもん。

 


 


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2011年6月16日 (木)

女が階段を上るとき



オンナという生物はほぼ四つのタイプに分けられる。

ブログの途中ですが・・・
  (このブログは未亡人おたまの
       独断と口からでまかせに基づき運営されております)

と、お断りテロップを流しておいて・・っと。

続きです。

 

四つとは以下の通り     

 賢そうな賢い女
 賢そうな愚かな女
 愚かそうな賢い女
 愚かそうな愚かな女

高峰秀子さんは賢い女性です。

女優としては、野心がのぞいたり、どうしようもない馬鹿だったり、ずるかったり、高慢ちきだったり、自堕落だったり、自己矛盾に満ちあふれた部分の見えるひとが素敵です。

役者は役を演じるばかりではなく、そこにある種の自己投影をすると思うのです。
そういった意味において、高峰秀子は「賢さ」が前に出て、今までは、あまり魅力を感じる女優さんではありませんでした。

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この日観た映画は「女が階段を上るとき」
高度成長を迎えようとする夜の銀座に生きる、バーの雇われママが主人公です。(監督・成瀬巳喜男1960)

帰り、売店に置いてあった「私の渡世日記」を買いました。
本は買わないと決めていたのにね。
しかも、上・下巻
表紙になっている梅原龍三郎の「高峰秀子像」が素敵だったからかもしれません。現在この油絵は東京国立近代美術館に納められているそうです。

高峰秀子は女性としては珍しく、自己を俯瞰視できる人のようです。

幼い頃から自分ではない自分を演じてきた習いなのか、天性の資質なのか、判りませんが、自己肯定も否定もせず、ただ自分を見つめている。

そこには、自分を飾ることも、守ることもなく
言い訳は一切ありません。

「男前」です。そこらへんの 男以上に。

自分の過去の恋愛体験について、彼女はこう書いています。

「色と欲」 (の絡み合い)

何て可愛げのないことを言うの!
可愛げのないおたまにはよ~く判ります。
非常に共感できるのです。

(以前このブログにも書きましたが、怨みつらみの不倫告白をなさった、有○稲○さんとは大違いです)

その冷静さが・・・・女性として幸かどうか
「大きなお世話だ!」と一喝されそうですが。

賢い彼女は賢い選択をし良き伴侶みつけます。
激動の子ども時代の埋め合わせをしても余りある、穏やかな幸せを手に入れるのです。

真っ正直で率直な人のようでありますが、本当のところは解らない。
だって、彼女は「女優」だから・・。

幅広い演技力でどのような役でもこなせた高峰秀子
多くの文化人政財界人から愛され、それにおもねることの無かった「自律」の人。
彼女の気高さと精神の豊かさは彼女自身が作り上げ、手にいれたものでしょう。

そして、彼女のしあわせはなんと言っても、「こんな言い方をするのは悪いが君はある種の”カタワ”だ」と言う伴侶を得たことだと思いました。

「女が階段を上るとき」ですが
美しい高峰秀子さんが一番美しかった頃の映画ではないでしょうか。

映画の話をしようと思って、本の話になっちゃったわ。


 


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2011年3月 1日 (火)

鈴木しづ子



 

「夏みかん酢つぱしいまさら純潔など」鈴木しづ子

                       (河出書房新社)

 

掲句が標題となった、本を読んだ。
伝説の女流俳人といわれる鈴木しづ子の二冊の句集
「春雷」「指輪」を一冊にまとめたものである。

いや~。面白かった。
何がって?
巻末にある、詩人・正津勉氏である。
詩人らしからぬ(?)率直な文章で感想を述べておられる。

句を読みすすむにしたがって、
「なんでやねん!」と突っ込みをいれていたワタクシは、小さくガッツポーズをしてしまったほどだ。

鈴木しづ子。1919年・東京生まれ。
戦中・戦後のごく短い期間に鮮烈な印象の句を人々の胸にに刻み込んで、忽然と姿を消した女流俳人である。

女性としては当時珍しい製図工として工場勤めをしていた文学好きの若き日々が第一句集「春雷」に収められる。
そして、「どないしはったん?何があったん?」と驚きの第二句集「指輪」である。

戦後を生きる女性の事情は我々には計り知れない。
婚約者の戦死により、大きく運命が動いたしづ子であった。

正津氏の文によると、母の死、婚約者の生死不明の最中の恋愛。別の男性との唐突な結婚、離婚・・・と歯車は回り始めるのであるが、

身を消すように東京を離れ(このあたりから伝説の女っぽくなっていく)ダンサーになり、黒人兵と同棲。
折りしも「こんな女に誰がした」という歌がはやっていた。

彼女のそれが自由恋愛であったのか、生計の糧であったのか、判然としないが、世間はそんな境遇の女性の句に飛びつく。
この手の本としては、珍しいベストセラーになった。

彼女が星の流れに身を任せたのかどうかはわからない。「春をひさぐ」仕事についていたわけでも無さそうだが、「そんな、投げやりにならんでも・・・」という表現の句がつづく。

敗戦国のうら若き女性が敵国の男の腕にぶら下がり歩く。その光景を当時の日本人はどのような思いで眺めていたのだろう。哀しみ・侮蔑・同情・好奇・自責・・・・
貞操という観念が今とは全く異なる。

人々はしづ子の句をどのように読んだのだろう

朝鮮出兵から帰還した彼は麻薬に犯されており、あわただしく本国に帰る。
テキサスに住む彼の母から「急死」の知らせを受けたのは、わずか二ヶ月後だったそうだ。

この怒涛の時間を全て句から拾い起こすことは出来ない。
しかし・・・逆も又・・・である

というのは・・・

「句は私の生命でございます」というしづ子は、おびただしい数の句を師へ送っていた。
正津氏ははっきりとはおっしゃっていない、あくまでも、ワタクシおたまの深読みですとお断りしておくが、このおびただしい句の中から師・松村巨湫が、ある傾向の句のみピックアップしていたなら、しづ子であってしづ子ではない一つの像を作り上げることもできるのではないか。

かくして(って勝手にそう思ってるんだけど)句集「指輪」は上梓され、注目された直後のしづ子の失踪により、才能豊かな女流俳人は「伝説の人」となる。

鈴木しづ子。
今、生きておられたら92歳。
アメリカに渡ったとも、北海道で別名で出現した俳人だとも言われているそうだ。

まさに伝説の人。

ジンギスカンになった義経ほどではないにしても。

「ひざ近くもだしゐたりき雪ふる音」
「いとしさの十の指はもかぜ癒えよ」
「さくらはなびら著け笹の葉ふかれゐる」
「そびらより南風つよく出勤す」
「東京と生死をちかふ盛夏かな」

                       (春雷)

「寒の夜を壷砕け散る散らしけり」
「体内にきみが血流る正座に耐ふ」
「菊白し得たる代償ふところに」
「煙草の灰ふんわり落とす蟻の上」
「月明の橋を越ゆれば町異なる」
                       (指輪)


 


 

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2011年1月27日 (木)

読書しましょ



このブログ「書籍のカテゴリー」も作ってたんやわ・・
と、今更ですが思い出しました。

次男が帰省したとき、
「なんか、おもしろい本ない?」と聞いたら
教えてくれたのが

 「取次屋栄三」 岡本さとる著

池波正太郎ファンの母と知っての推薦です。

アマゾンで165円だったけど、「本は買わない」と決めたので、図書館にいってみようと思っています。

「本じゃないけど、これもお奨めやで」と言ったのが
東方神起の「ミロティック」

今、本のハナシしてんねんけど・・・

 

 

 

 

うなってしまいました。かっこよすぎる
それも、メチャンコ。バリクソかっこいい

小さな親切心。↓↓↓

皆さんにも覚えていただくため、
「振り付けVer」を貼りつけました。

足腰に自信のある中高年の皆様。
是非ともご一緒に。
キレのあるところをお孫さんにでも、見せ付けてあげてはいかがでしょう。

プロモーション用やライブVerもユーチューブで見ることができますので、よろしければご覧下さい。

日本のアイドルグループとラベルじゃなかったレベルが違うなあと思いました。

そうそう、本のハナシでしたね。
あたくしは、小説はあまり読みません。
評伝物が好きです。
一部をのぞき、あくまでもややフィクションとして読んでいます。
著者が情報をどのように取捨選択するかで、大きく変わるからです。
娯楽活劇みたいな気分で読むのは怪しからぬかしらね。

思い出すままに・・・並べてみます。

「壇」 沢木耕太郎著 壇一夫の妻を語り手とする

「トニー谷ざんす」「ヤスケンの海」 村松友視著

「釈超空ノート」 富岡多恵子著 折口信夫へのミーハーの、「ごめんなさい」の動機から読み始めたが、腑に落ちておもしろかった。個人的には「謎解き」。

「そして風が吹きぬけていった」 植田沙加栄著 天才ジャズピアニスト守安祥太郎の評伝。戦後の空気が伝わる。ぼろくそに書かれる秋吉敏子他、実名がどんどん出てきておもしろい。ジャズファン必読。

「笑わせて笑わせて桂枝雀」 上田文世著

「われ弱ければ・矢嶋楫子伝」 三浦綾子著 「女子学院」初代院長の評伝。あの時代にとんでもない「不道徳」に生きた女性のどこまでがホンマやったんやろ。とミーハーレベルで興味が尽きない。もう私トシやしアカンと思っている女性にお奨め。

 

・・・・・・まだまだあるけど、又。

瀬戸内晴美の評伝物が面白くてたくさん読みましたが、これも次の機会にご紹介いたしましょう。

いやーっ。(他人の)人生っておもしろいですねっ。



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2010年1月28日 (木)

ゆくえも知らぬ恋の道

「いいお天気・・・お稽古でもしようか・・」

「こんな日は音(ね)がちがう」雪の晴天を見上げて駒子が言っただけのことはあった。空気がちがうのである。・・・・音(おと)はただ純粋な冬の朝に澄み通って、遠くの雪の山々までまっすぐに響いて行った。(川端康成・雪国より)

主人公、島村は凛とした撥(ばち)の音に駒子の生き方を重ねる。
虚しい徒労とも思われる、遠い憧憬とも哀れまれる、駒子の生き方に。

 

エエイッ   シャラクセーわい 

 

いったいこんな女に誰がしたのよ・・
ゼイゼイゼイ・・(鼻息)

最近新聞紙上の読書会で「雪国」を取り上げていたので再読してみた。
一度目は十代半ばに読んだ。
次は本の裏にS55/8/23とメモがある
そして今回だ。

駒子さんに言ってきかせたい。
恋の成就が「添い遂げる」ことなら、あなたのそれは
「ガラスの城」よ。    
美しいけど脆いわ。
ゆくえも知れぬ恋なんて時間の無駄エネルギーの浪費
世はエコの時代なのよ・・・

 

でも。何回読んでも

 

読後感は一貫している。
「こんな男のどこがエエねん」

紙上読書会でもそのような声が多かったものの、皆さん大人だ。上質の文学作品をきちんと読み解いておられる。


アタクシの今年の初夢は(話変っています。ついてきて下さい

三味線の皮が破れていた」というものだった
フツー、そんな夢みるかい

実は、あたくしは「三味線弾き」なのです。
「弾ける」のです。
好きで弾いているわけではないのです。
趣味でも特技でも、ましてや職業でもないのです。

・・・・・・

話せば長きことながら・・・べんべん
長くなるので続きは(たぶん)明日。

興味のある方も無い方も、たいした話ではございませんが、明日またお越しくださいませね

 

 


 

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2009年11月24日 (火)

「1Q84」を読んで



村上春樹著。「1Q84」を読んだ。
待望の村上ワールドに、発売前から予約が殺到し話題になった。

私は池波正太郎以外に特に好きな作家はいない。
しかし、昔読んだ村上春樹の小さな作品・・草原と羊が出てきた・・に深く心を動かされた記憶がある。
題名も内容も忘れているのだから、我が読書力はその程度だ。

この「1Q84」は句友、M子さんが「感想を聞かせて欲しい」と言って貸してくださった。読む前からプレッシャーをかけられちゃった。
敬虔なクリスチャンの彼女は「結局は愛について書かれていると思う」と言われた。

読書の楽しみはどれだけ自分の人生にひきつけて読むかということであり
そういう意味では、人の感想を聞いて学ぶことは多い。

でも

本を読むときは書評はもちろんあらゆる予断抜きに読み進めたい
だから・・キャー、それ以上言わないで・・

これから読まれる方のためにできるだけ、内容には触れないが
とにかく前のめりになってぐいぐい引き込まれていくのは確かだ。

二つの話が平行して進む。かかわりの無い二つの世界が奇妙なリンクを重ねながら少しずつ近づいてくる。
そして、それぞれの主人公に肩入れを始めたころ、その、色の違う二本の飴はゆっくりとねじれ始めるのだ。

登場人物すべての輪郭がくっきりと描かれている。(公園を横切る猫までも)。この作品の大きな魅力だと思う。

人は孤独だ。(大勢の中にいるときでさえ・・)
孤独に気づかぬ人は幸せといえるかも知れないが本当の幸せにめぐり合わないままかもしれない。
知らないでそうなるのと、知ってそうなることの違いだ。
(おたまちゃん、何を言っているんだか・・)

人は人の中でしか生きられない。この地球上に自分ひとりしか居ないとしたら、生きる意味など全く無い。

 

孤独の深淵を子どものころにのぞいてしまった主人公たちのそれぞれの魂は「大丈夫。わたしがいるから」とささやきあう。
引き寄せあっていることさえ気づかずに。

(おしゃべりし過ぎました)

混沌とした社会。この25年に起きたひとつひとつの出来事を振り返り,そして思う。
それが事実であったのか、現実であったのか、何がどう変わったのか変わって行くのか、そしてどこに進むのか・・・

作中の小説「空気さなぎ」に記された不安感に作中の読者が惹きつけられたように、小説「1Q84」の提示するものに戸惑い、うなずく。

 

第三部が執筆されるらしいが、光明は見えてくるのか。期待大である

 


 

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2009年10月18日 (日)

日々是修行

今朝の朝刊(武士のサムライ)に加藤和彦氏の訃報が伝えられている。
人は死ぬ。必ず。って判っているんだけど・・・
どうしてかなあ・・・

判らないことが多すぎる

 

ホーキング博士の宇宙理論
  ブラックホールが蒸発する?

なぜ石田純一はポジティブなのか

 

そして・・

 

女子プロゴルファーは、なぜ・・

     へそ出すのか 

 

でも
いちばん判らないのは「自死」の道を選ぶこと。

かつて
あたしの周りに、いつ「死」を選んでもおかしくない人がいたワ。
でも、死ななかった
苦しさから逃げ出すことをとどまらせたのは、
その人の他者(家族)に対する
残る人のことを思えば死ねなかった。

 

人間ってしんどい生き物やね。

 

今読んでいる、佐々木閑著「日々是修行」の中に
自殺は悪ではないという一話がある。

仏教の観点に基づくこの話に、大きく肯いながらも
わたしは深く頭を垂れてしまうのだ。

自らの苦の消滅ゆえに止むに止まれぬ決断を下すことで
残されたものに新たなる苦が生まれるのだとしたら
それは、罪悪ではないのだろうか。

残されたものは死者に対し罪悪感を抱くという
別れが理不尽で残酷であればあるほど、その思いは強い。

残る人に思いを至らせてほしいと切に思う。

そして、残された側に立ったときは・・・
愛するものの死を肯定し受け入れてゆくのも「日々是修行」なのね。

 

そういえば「帰ってきた酔っぱらい」のレコードもっていたなあ。
サイケデリックなレコードジャケットも覚えてる。
おたま高校生でした・・・。

加藤さんのご冥福をお祈りします。

 

 


 

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2009年10月 9日 (金)

父の肖像

今朝の朝刊(武士のサムライ)によると台風18号の残した爪あとの記事。
今朝は台風一過の空が広がっています。

辻井喬著「父の肖像」を読み終えました。

大いなる政治小説であり、おおむね事実に基ずく濃密な伝記であり、読み応えがありました。
革命を夢見た人として、又詩人としての作者が、見据える「父が築きあげたもの」・・・。

以前、辻井喬氏の講演で、ご自分のことを「差別意識に敏感な子どもであった。それは自分の出自に関係している」とお話されていました。

「父の肖像」で、私が面白いと思ったのは主人公の母親に関するところです。ここはフィクションの部分なので、辻井氏の出自とは関係がないのですが・・・。

漂白のサンカと呼ばれる「木地師」の存在を私が知ったのは、今年の夏のことでした。
京都と滋賀と福井の境にある、深い深い森に案内してもらった時のことです。その深い森に「木地師」の住居跡がありました。
「木地師」は「どこに住むこと」も「どの木を切ることも」許された特別な集団であり、その発祥は「惟喬親王」といわれ、その仕事は表のみならず、実は特別な任務を受け持っていたのではないか・・・と説明をうけました。

でも、こんな深い森の中に・・

  「つぎつぎと蛭降る暗き祠道」  おたま

また、この春から夏にかけ乙川優三郎の新聞小説「麗しき花実」を
楽しみに読んでいました。
詩情豊かな心の奥深くに沁みこむ文章に魅了されました。
そして、主人公の理野の昔のおとこが、なんとこの「木地師」なのでした。
木地師であることの誇りと、特別な世界に生きる漂泊者の故かおとこは理野の前から去ります。

そこで、話は最初にもどりますが。
辻井喬がモデルとなった主人公「広田恭次」の母は隠れ里の出身であり、恭次を出産し手放した後は、隠れ里の奥深くにその情念も姿も隠してしまうというミステリアスな存在として登場します。

「木地師」という言葉はひとことも出てきませんが、滋賀・東近江・宿世を背負う者・惟喬親王の流れを汲む人々・・・という共通項がぴたりと合致するのです。

まあ、隠れ里の定義として、地理上の区分におけるそれのみならず、隠棲を心に決めた人の住む場所ともいえるのでは・・・と小説にはありましたが。

妄想・空想好きのあたくしにとってはそういったところも大変興味深く読んだ本でした。

 


 

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