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2012年12月 5日 (水)

悼・中村勘三郎



ブログを初めて3年が経ち、前回で記事数が777件になりました。

カウントはされているものの、実はこの中に「下書き」のままUPされていない記事が一件あり、それに気がついたのは昨日のことでした。

2011・9・27・19:27
「人情話文七元結」

たぶん、書き始めたが、どうしても気持ちがすすまなかったものと思われます。
久し振りでみる中村勘三郎の舞台は精気がなかった・・・

歳の暮れ。どうやって年を越そうかと相談中の母娘。
これ以上の貧乏はないと思われる長屋に寒風が吹き込む。
そこに、主人である左官屋の長兵衛が博打で負けて身ぐるみ剥がされた姿で戻ってくる・・・・

最初の登場だけで、舞台の空気を作る勘三郎はさすがだと思いました。
しかし、舞台は磐石ではなく、「大丈夫」かなと思わせました。

そんな印象から、記事も書けなかったのだと思います。

中村勘三郎というより、ベビーギャングの頃から愛されたカンクロチャンとして「中村勘九郎」という名の方が親しく感じます。
新勘九郎の襲名も見届けられましたが・・

惜しい。

歌舞伎ではこれからという年代に差し掛かったところなのに・・

何でもこなせる器用さゆえに、優等生過ぎると贅沢な「不満」もありましたが、これから、先代勘三郎に負けない味わいを出していく人だと思っていたのに本当にざんねんです。

最後に観た舞台が彼に最も似合う人情噺であったのがせめてもの慰めです。

下書きのままだった記事をここに載せて
777回目UPということにしておきましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この演目を今は無い道頓堀・中座で見た記憶がありますが番付によれば、そのときのお久は今回と同じ芝のぶになっています。

強い印象として残っているお久は、だからたぶんテレビで見た、平成9年1月歌舞伎座だったのでしょう。

それは、中村勘太郎のお久でした。ちょうど変声期だったのでしょう、年頃も役と同じくらいで、その可憐さ、けなげさが忘れられません。
カンクロチャンは良いお子に恵まれなさったと思ったものでした。

前置きがながくなりましたが、
9月4日、新歌舞伎座・昼の部へ行ってきました。

休演が続いていた勘三郎、久々の舞台でございました。

今月初め(9/4)に新歌舞伎座に行きました。

記事にしておこうとおもいつつ・・・
今日になっちゃた。少しうろ覚え。

しばらく休演していた中村勘三郎の復帰ということで
出し物は「人情噺文七元結」(にんじょうばなしぶんしちもっとい)

年越しもままならない貧乏長屋に、



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コメント

本当にびっくりしました。
これからなのに…。
平成中村座というのを一度見てみたかったです。
歌舞伎中継をTVでやってくれないので
勘三郎一家の特番を楽しみに見ていました。
先代も大好きでした。先代を越えるまで芝居してて欲しかったです。

投稿: ばんび | 2012年12月 5日 (水) 08時24分

おたましゃん。
早々と記事にしてくれてどうもありがとうございます。
私も今朝のニュースを聞いてびっくりして、単独粒をしてしまいました。
これからどんどんおもしろい俳優さんになるに違いなかったのにね。
私が息子たちの襲名披露を名古屋で見たときは
この次は親子共演だなって思っていました。
病気でしたから何とも言えませんが
彼に続く俳優さんたちの活躍に期待します。
猿翁一門も来年に襲名披露しますからね。

投稿: こごろう | 2012年12月 5日 (水) 08時39分

57歳は早いですよね
短命なのは二物を与えないと言う天のおぼしめしなのだろうか
だとしたら私は長命だろうな・・・

投稿: poo | 2012年12月 6日 (木) 22時39分

驚きました。
まさか、こんなタイミングで逝かれてしまうとは。
この方も、大きな荷を背負われた方でしたね。
大股で、太く、一気に駆け抜けられたのでしょうか。
悔いなどなく、やり切ったと感じていて欲しいです。プレッシャーもあったと思いますから。すごい仕事を果たされましたよね。
勘九郎、がんばれ!( ^ω^ )

投稿: Ryoko | 2012年12月 7日 (金) 19時07分

ばんびさん。こごろうさん。pooさん。Ryokoさんへ

コメントありがとうございました。

つくづく人は死ぬべくして死ぬのだなという思いです。
ここ数年の勘三郎を「生き急ぎ」と感じる人は多いと思います。

父親ゆずりの芸達者。芸域の広さ。間のよさ・・。それは誰もが認めるところです。

芸は人なりと申します。
人とは人柄ではなく「人物」のことです。
名門御曹司で偉大な父親の庇護下、自分の才能を発揮できた彼は若く爽やかで気持ちの良い芝居をしました。
客と言うのはぜいたくなもので、「もっと」を求めます。
父・先代の底流にあった「ぞっとする暗さ」
それは求めるべくもありません。
なぜなら人物そのものが芸だからです。

しかし、父親と違った意味での「苦労・迷い・悩み」を歴史に重ねていくであろう勘三郎の今後は本当にたのしみでした。

先代が亡くなったとき、勘三郎は髪結新三の舞台の真っ最中でした。後年、彼の当たり役となります。父親の型どおりに演じながら「勘九郎の新三」は客をうならせます。
そのことを思うとき、丁度その頃の彼と同年代に当たる新勘九郎。七の助がどこまで出来ているのか。
あの勘九郎の力を持ってしても、歌舞伎界という門閥の世界で、後見を失くすというのは大変な苦労を伴うものでした。
どうか、困難を乗り越えて大きく成長していただきたいと思います。
苦労はきっと芸に深みを与えるものでしょうから。

コメントの返事のつもりが「語って」しまいました。すみません。

poo氏。長生きも芸のうち。
長生きしようぜ!

投稿: おたま | 2012年12月13日 (木) 10時33分

悲しいですね。
残念、惜しい、くやしい、言葉が出ませんでした。
歌舞伎に興味が無いと思っていた息子が、
残念で惜しいなを連発しています。
あの日、着付け師の友人が南座観劇する方に
「帯の赤いとこ出ん様に締めて」と依頼されたそうです。
ほんまに残念です。

投稿: youko | 2012年12月14日 (金) 16時25分

youkoさん
さすが京都のお方。細やかな心遣いですね。
あの日の襲名口上はテレビで繰り返し流れていましたが、胸のつまるものでした。

昨日、たまたま古~~い演劇雑誌を読んでいたら、色々な役どころに挑戦したいと語る30代の勘三郎のインタヴューがあり、一番やりたいのは「八重垣姫」だと言っているのです。
ああ、やはりこの人は父の向うに六代目菊五郎を見据えていたのだなと思いました。

投稿: おたま | 2012年12月15日 (土) 15時37分

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