大當り伏見の富くじ
カッパのことを大阪弁で「がたろ」って言いますねんよ。
がたろ→がたろう→かわたろう(河太郎)
転じて、川掃除、川ざらえを仕事にしている人を「がたろはん」って言いました。
関係ないけど、寅さんに出てくる佐藤蛾次郎さんね、ほら、御前様の帝釈天でほうき持ってる「源公」
アノ人の事をずっと長いこと「がじろう」ではなく「がたろう」って思ってました。
「アフロのカッパ」なんやって・・・。
川掃除に従事している大阪市役所の職員が川から引き揚げた、なんじゃらかんじゃら(現金とかカードとか)をぽっぽにナイナイしている映像をニュース番組で見たことがあります。
そりゃあもう、生々しくて、胸がドキドキしましたわ。
道に落ちてたら、お上に届けんならんけど
川のもんはアテのもん
大阪市職員がそう言ったかどうかは「?」ですが、
このお話は、ひょんな拾い物から始まります。
松竹座二月花形歌舞伎・昼の部
「大當り伏見の富くじ」
関西で「喜劇」をやりたいとの染五郎の希望だったそうです。
和事の「はんなりボン」を染五郎が??との違和感も逆手にとり「変な大阪弁!」というセリフもポンポン飛び出す。
何分間に一回は笑いを取ろうと、
「吉本新喜劇」は出てくる。
「まきまき雲古」は出てくる。
「笑点」は出てくる。
「エグザイル」は出てくる。
これでもか・・これでもか・・これでもか・・。
染五郎が「歌舞伎喜劇」をこのように解釈なさっているとしたら、「ごめんくさい」「こりゃまったくさい」「ああくさ~」の三連発をおたまは、ブチかましとうございます。
もともと「鳰の浮巣」という歌舞伎の演目が下敷きになっているそうですが、コレが松竹新喜劇「浮かれかご」として人気を博したようで、おお、おお、藤山寛美のソレやったら、さぞや面白かったことだと思います。
「喜劇」って小手先だけのギャグの連発じゃない。
話そのものが面白いし、演者も力があるのだから、この脚本・演出には大いに不満が残ります。
テンポの良さ。チェック入れたくなる関西弁も気にならなくなる、染五郎の熱演。まるまっちく(丸く)て、まっちろけ(真っ白)な、かいらし(可愛らしい)翫雀。演者にこれだけ魅力があるのに、後味の悪さは何?
関西人は喜劇を知っています。
上方和事のおかしみを十分に理解できる人種です。
これでもかのエグさ。(半分は滑りネタやったけど)
コレで関西人笑かそうと思ってはるんやったら、
「なめられたもんやなあ・・」
というのが、感想です。
今年の二月花形、昼夜4本のうち
まぁ。見せてもろた・・と言うのは研辰の討たれ(夜)
だけかなあ。
そうそう、上の「大当り伏見の富くじ」の信濃屋傳七(愛之助)は良かったです。やはり上方ものはピタリとはまります。
黒住平馬(獅童)に突っ込み入れっぱなしだったので、ラブ様の登場にホッとしました。
あと、松也の女形が見られなかったのが、残念と言えば残念。だってデカイけど可愛いねんもん。
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コメント
染五郎さん、どうみても江戸のぼんぼんですわね。
日常ギャグ満載の上方へ、武者修行にでも行ったのかしら?
吉本、松竹新喜劇はずっとテレビで見てました。
若手のどうしようもないと思う役者でも、
喜劇を育てる地があるので、何年かしたら結構いい味になってきますね。
毎日新聞の「今週の本棚」で片岡秀太郎さんの「上方のをんな」という本が紹介されてました。
ご贔屓の愛之助さんはこの人の養子さんだったのね。
子どもの頃テレビで歌舞伎中継をよく見ました。
わからないなりにも面白かった。
実川延若という顔の妙にでかい役者さんが好きで、
すごい人がいるなあって思いましたね。
歌右衛門のお岩はあまりに怖くて見ていられませんでした。
それが何年か前、勘九郎(今の勘三郎)がお岩をやった時、
丸顔だったのでなんかおかしくて、
ケラケラ笑いながらヴィデオ撮りましたよ。
役者をちゃんと育てないと歌舞伎も潰れちゃうね。
投稿: ばんび | 2012年2月21日 (火) 23時42分
ばんびさん。
延若を見ておられるのですか。
いかにも役者(歌舞伎)顔のやくしゃさんでしたね。
役者の幸・不幸は生きた時代に大いに関係するとおもうのですよ。
あれほどの実力のある人が歌右衛門を初めとする先輩役者と芝翫・富十郎らの世代の間に位置してしまった。
しかも、上方歌舞伎衰退の時代東京に出るしかなく、本領を発揮する場にめぐまれなかった。
もし、今の時代(上方歌舞伎が力をとりもどした)に延若がいたら、上方歌舞伎の厚み、幅(一緒か!)は大きく違っていたと思います。
芸が容姿を上回れば、すごいですね。
「ごつごつ団子」の富十郎の「かむろ」それはそれは愛らしい童女でしたもん。
投稿: おたま | 2012年2月22日 (水) 10時20分
さん。
貴方の言葉になぐさめられ励まされます。
どうも有難う。
このことは、以前ブログにも書いたのですが
「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。我等、生死を普有するものなり」
清沢満之の言葉に出会った12歳の頃から、今日に到るまでに、自分なりの死生観を作ってきたのかもしれません。
しかし、現実の死(家族・他人・自分)の前で、どのように自分を処すべきか・・そんなこと、答えがあるわけないです。
嘆き悲しみオロオロし苦しむ。
それも立派な処し方だとおもいます。
私が何を大事にしているか・・それは
自分が楽であるということです。
だから、必要以上に嘆くことも悲しむことも、傷つくことも、落ち込むこともありません。
それは、そうしたいからであって、ごまかしではないと自分では思っています。
なぜ、そうしたいか。
それは、自分の人生を大切にしたいからです。
生きることは別れの繰り返しであること。
そのことを受け入れることは、今を大事に生きることにつながる気がします。
さればこそ、死もまたよし。です。
貴方のコメントがブログ開始から2000件目だそうです。ありがとうございました。
投稿: おたま | 2012年2月22日 (水) 11時44分