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2012年1月29日 (日)

喪中

今日のお花
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ガーベラ/神秘

夢を見ていました。

長い真直ぐの道の先に波止場があり、船が停まっています。旅行中なのですが、自分の靴が見当たらないのです。
同行のアヤコさんに「先に行ってて・・」と言い、靴を探します。
周りの人も手伝ってくれますがみつかりません。後ろからやってくる旅行者が私を追い抜いて行きます。

夢の中で夢をコントロールすることは可能ですが、顕在意識としての「見たい夢」は見ることができません。
其処が夢分析の面白いところだとマーニャ(又、でました!)は言います。

起きてから、おかしくて少し笑いました。
「靴」というのは自分の「基盤」「核」「柱」
「靴をなくす」というのは、身近な人との関係の消失を意味します。

母が亡くなり10日の間、家の中で静かに暮らしました。
留守電にし、宅配以外は玄関に出ず、黒いセーターを着て、モーツァルトのレクイエムを聴いていました。

母の看病で留守をしているとご近所は思っておられたようです。
ケータイに掛かってきた2・3の友人以外とは話もせず。母の火葬以降、子ども達からの連絡もありませんでした。

金曜日にどうしても、出掛ける用事がありました。
「アタシに優しくしないで!」って言ったのに、みんなとても優しいのです。

帰りに、鰤のお刺身と、小松菜を買いました。
小松菜は湯葉とおじゃこを入れて煮浸しにしました。
蕪を柔らかく煮て、お出汁で作った葛あんをかけ、針しょうがを乗せました。

お正月に買ってあった、「越後鶴亀」の純米吟醸をいただきました。

これにて、忌明けといたしましょう。

 


 


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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

どうもご苦労さんでした。
たいへんですよね、身内を送るってのは(と書いてしまう軽薄さ)。
不老不死を願った始皇帝のような権力者から、僕が読んだ雑誌の記事では晩年のエルビスまで、自分の死後に思いを寄せた人物は多々いる。

僕はたかが人間程度がということで、たとえ始皇帝やエルビスのような歴史に名を残すことになった人物であっても、人間程度が死んだその先を探ろうなんて不遜ではないか。それこそ神を畏れぬ行為ではないかと考えていたのですが・・・。
ところがどっこい、自分の父母が老いて、それに自分自身もこの年齢になってしまって、人間の死んだ先がどうなるのかやっぱり気になる。

死後には何も無い。としたら・・・。
何も無いということは、あれやこれや意識することも無いのだから、それはそれでさっぱりしていて楽だ。

死後にあの世やら来世やらみたいなものがあるとしたら・・・。
そんなの面倒だというひともいるだろうけど、そちらもそちらでまた面白そう。

実際の問題として考えるなら、ぽっくり苦しまないで死ねるか死ねないか、そこらあたりが肝心になってくるかもしれない。

投稿: ふぁらんくす | 2012年1月30日 (月) 01時19分

ふぁらんくすさん。
どもども。ありがとうございます。
人は間違いなく死ぬので、自分の事は知ったこっちゃなくても、親御さんのことは希望を聞いておかれたほうがいいと思います。順番ですから。

ひっちゃんは死ぬまで元気な人でしたがセレモニー好きなので、自分の葬式の話をよくしていました。
で、希望通り出来たと思います。
コレは、残るものにとって、大満足を得られるものです。

死んでも生き続けると思うと、疲れますがまだ行ったことがないので若干わくわくします。
そこで提案ですが、ふぁらんくすさんが先にお出掛けになられたら、おたまにアッチの様子を報告に来てくださいませんか。
あんたにそんな義理はない!とか言わず。

投稿: おたま | 2012年1月30日 (月) 09時14分

気持ちの中のけじめがついたって事なんでしょうか。
ある思いの中に迷い込んでいると、自分がどこでどうなっているのかわからなくなってしまいますが、
夢が教えてくれるとしたら。。。
「道 用意できたから」 って心が言ってるみたいですね(笑)

夕べものすごく疲れていて、おたまさんの記事を読んだ後眠ったら夢が移りました(笑)
毎日自宅からある場所にタクシーで連れて行ってもらってたら、ある日はその予定がなかったのに、タクシーが親切にも迎えに来てくれました。
乗る予定もなくお金も持ってないのに、わざわざ来てくれたので乗ってしまいます。後でお金が払えないのが心苦しく、他の人も乗せて相乗りしてもらっています。ところが車中でサンダルが脱げてしまうのです。履いても脱げてしまう。そして、途中の道で私は「猫」になってしまいます。猫はサンダルを車中に置いて、いつのまにか車から降りてしっぽをピンと立ててもと来た道を戻っていきます。
 そこで私にタクシーの運転手さんの心が入ってきて、「乗るつもりがなかったのなら言えばいいのに、勝手に来ただけなのに。気を使って他のお客さんまで乗せるから、もと来た道を戻ることもできない」と思っていらっしゃいます。とても優しいタクシーの運転手さんの気持ちに、猫は頑張って帰らなくちゃと思っている と言う夢でした(笑)
ちょっと暖かい夢だった。履物が脱げる夢が、身内の不幸とかかわりがないことを祈りつつ(笑)これはおたまさんの夢が移ったんだと思っているところです。

投稿: てんちゃん | 2012年1月30日 (月) 10時21分

死後の世界ってどうも胡散臭い。
と思いながらも心で完全否定することはできない。

むかしに読んだ小説家(遠藤周作さん)の本に書いてあったのですが、彼は奥さんを相手にして朝おきた時とかによく死んだふりをしたそうです。
奥さんも心得ていて、またかと思っていたそうです。

これだ!
これですよ。死んだふり。
ただこれの弱点はあって、オオカミ少年のようにまたか・・・、となってしまうきらいはある。

なんとか死んだことにできないものでしょうか?
そうすれば残る人生はオマケみたいなものだ。

死は想像するだけではまったくわからない。
たぶん死ってのは、やってくる時は心情的には「いつも突然に」のような気がする。
そこから先、ぽっくり死ねるか、末期ガンみたいになってうんと苦しむか。
あなたはどっちだ? となる。

死後の世界からの報告は、そんなことができるなら報告の事例は(ただし絶対に確かな事例は)いっぱいあるはず。
報告したくてもできない、何か報告をさまたげる要因があるかもしれない。
もし報告ができるなら、おたまさんだけじゃなくて、世界中の生きている人間に報告に戻ってきます。
国連の場とかを借りて、あの世はあったぞって大々的に報告します。

投稿: ふぁらんくす | 2012年1月30日 (月) 11時16分

てんちゃんさん
「てんちゃん。とっても優しい人」ってマーニャ(って誰?)が言ってます。

マーニャはテキトーな奴ですが時々、本当のことを言います(笑)

どうも有難う。

ふぁらんくすさん。
まあ、まあ落ち着いて・・。
私達は丹波哲郎にはなれない。

死んだあとのことより「今」ですわ。
強く生き抜きましょうね。

でも、きっと、おたまのほうが後だとおもうから、報告はお願いしますね。

あの世がどうなってるか、やっぱり行ってみないとわからないですからね。
でも一応、ひっちゃんが待っているとは思っているのです。
まあ、しあわせですわね。そう思うのは。


それよりも大事なのは、死ぬ一歩手前。つまり「死に様」だとおもいます。
昔、わが師は「生き様」は装うもの。
「死に様」は装えないもの。
とおっしゃられました。
そして、それをつい最近思い出しました。
深く考えてみたいと思っています。

投稿: おたま | 2012年1月31日 (火) 00時46分

往年の東映時代劇のスターであった大友柳太朗が飛び降り自殺しています(僕は東映時代劇の大ファン)。
僕はそのニュースを後になって知ったのですが、その時の僕の感想は「へぇ〜、老人になっても自殺できるんだ」
没年は1985年です。
いまWikipediaで調べたのですが、なんだ(ちょっと意外)72歳で自殺している。
85年当時は僕もいまより若かったので、もっと年寄りの自殺のように思っていた。

大友柳太朗は映画俳優だったわけで、そこは個人差というか、一般人とは一緒くたにはできないかもしれませんが、年寄りでも自殺できるのです。つまり僕でも、おたまさんでも(ワリイ、失礼なことを書いてしまった。これから先、おたまさんが年をとって72歳になってもという意味です)。

生活苦から自殺する。老いて生きていても何の喜びもないから。う〜ん、ふぁらんくすの場合は将来的にあり得るかも。

自殺する時の楽しみ、といったら言い過ぎですが、自死で期待(?)するのは、死んだ後の周囲の人間の反応。
これに関しては、ふぁらんくすの場合はまったく期待できない。
僕が死んでも、誰も知ったことじゃないが現実です。

>「死に様」は装えないもの。
とんでもない! というのが僕の意見です。
睡眠薬を飲んでも、首を括っても、飛び降りても、腹を切っても、死んでいくのはグロテスクに死んでいくのでしょうが、人生の終焉である死のセレモニーをちょっとは装わないでどうする?
女のひとがすっぴんだと嘘を言って、それでいてしっかりすっぴん風のメイクをしているようなものです。
ふぁらんくす的には願わくば自分の死は、たとえばシックに(うえ〜、反吐)決めたいものです。

投稿: ふぁらんくす | 2012年1月31日 (火) 07時30分

ふぁらんくすさん。
へ~ぇ!です。
大友柳太朗は72歳だったのですか。
小さい頃から見ているからか、ものすごい御歳という印象があります。
「波止場だよおとっつあん」の美空ひばりが19歳だったと知ったときくらいの驚きです。

知人(故人)が松山中学(名門)で一緒だったと言っておられました。その方もすっごいお年寄りだと思っていましたが・・

それにしても、東映スターというのはなぜに、顔がでっかいのでしょう。大友柳太朗なんて、黒頭巾から顔がはみ出していたではありませんか。花柳小菊や浦里はるみを傍にはべらせて、にやにや笑ってはりましたね。
ああ、それは右太衛門の御大でしたか・・
いえ、知恵蔵先生でしたか・・
なんか、ゴッチャになっています。
最近の小顔のイケメン俳優なんて、クソ食らえでございます。
おっと、下品な言い回し、お許し下さい。

私も、ウィキペディア見てきましたよ。

お言葉を返して申し訳ないけど、やっぱり、「死に様」は装えないとおもいます。
彼が自死するのは朝起きて、「さあ。死にましょう」というのではない。
「その日」に到るまでには少なくとも5年はあった。心の中ではもっと前からかも知れない。
その「生き様」も含めて「その日」に到る「死に様」があるわけです。

自死の方法。結果は単なる「死に方」です。

まあ、とにもかくにも、ふぁらんくすさん。
私達、生きてまいりましょう。喜びや楽しみなんて、見つけりゃ、なんぼでもありますって!
今朝も転がる箸を見て、大笑いしたところですねんよ。

投稿: おたま | 2012年1月31日 (火) 09時47分

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