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2012年1月

2012年1月31日 (火)

兄妹



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母の火葬を終えて、兄と(アンパンマン)牧師が駐車場まで見送ってくれました。
平凡夫妻とおたまは車に乗り込んだのに、次男明星氏がいません。
車の中から外を見ると、兄が自分のしていた腕時計をはずし、明星に渡そうとしているところでした。

「○○おじちゃんが≪形見分け、渡しとく≫と呉れた」

真綿嬢によると
「これバルカンのクリケットですよ」とのこと。
「コオロギの声」といわれるアラームがついているのが特徴らしい。

「音」にうるさい兄らしい趣味です。

兄と言っても共に育ったわけではなく、二度も母に捨てられた彼は、それでも最後よく世話をしてくれたと感謝しています。

妹おたまに対して「かわいそうなのは自分だと思っていたけど、貴女は貴女でつらい思いをしてきたんだ。ということが、この歳になってわかる」といいました。

ふ~む。そっかな?

子どもは親を選べないけど、逆もまた、言える。
それが、「えにし」ってことかしら。

母はよく「私の人生ドラマになるわ」と言ってましたが、笑っちゃう。
天然素材は時として「周りを傷つけながら生きている」ということに気がつかない。

もう、そんなこと、どうでもいいや・・。って気分です。

母を叩いて叩いて、目覚めた時の素手に残るいやな感触。
そんな夢を見なくなって、何年になるでしょう。

孝行娘、これにて卒業です。

母には、墓はもちろん。遺骨も無く、遺影もなく、位牌もなく、戒名も無い。

最も彼女らしい。

姿を消すことを「ドロン」する。というのは死語なのでしょうかね。

母は「ドロン」したのだと思います。

じゃあ、生まれてくる子のことはどこに報告すればいいのですか?
平凡氏の質問にアンパンマン牧師が答える。

天に向かって語り掛けましょう

このように縁(えにし)の薄い兄妹でした。

今後、さほど会う機会もないでしょう。

あ。落ち着いたら(母が召されたら)母の「秘密」の暴露大会をしようって言ってましたっけ・・。兄は「隠し玉」をもってるらしい。
でも、それ・・たぶん・・知ってる。



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2012年1月29日 (日)

喪中

今日のお花
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ガーベラ/神秘

夢を見ていました。

長い真直ぐの道の先に波止場があり、船が停まっています。旅行中なのですが、自分の靴が見当たらないのです。
同行のアヤコさんに「先に行ってて・・」と言い、靴を探します。
周りの人も手伝ってくれますがみつかりません。後ろからやってくる旅行者がおたまを追い抜いて行きます。

夢の中で夢をコントロールすることは可能ですが、顕在意識としての「見たい夢」は見ることができません。
其処が夢分析の面白いところだとマーニャ(又、でました!)は言います。

起きてから、おかしくて少し笑いました。
「靴」というのは自分の「基盤」「核」「柱」
「靴をなくす」というのは、身近な人との関係の消失を意味します。

母が亡くなり10日の間、家の中で静かに暮らしました。
留守電にし、宅配以外は玄関に出ず、黒いセーターを着て、モーツァルトのレクイエムを聴いていました。

母の看病で留守をしているとご近所は思っておられたようです。
ケータイに掛かってきた2・3の友人以外とは話もせず。母の火葬以降、子ども達からの連絡もありませんでした。

金曜日にどうしても、出掛ける用事がありました。
「おたまに優しくしないで!」って言ったのに、みんなとても優しいのです。

帰りに、鰤のお刺身と、小松菜を買いました。
小松菜は湯葉とおじゃこを入れて煮浸しにしました。
蕪を柔らかく煮て、お出汁で作った葛あんをかけ、針しょうがを乗せました。

お正月に買ってあった、「越後鶴亀」の純米吟醸をいただきました。

これにて、忌明けといたしましょう。



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2012年1月27日 (金)

おじいちゃんの葬式・おしまい



霊柩車を見ると、「はよ、親指隠し!」って言われませんでした?
親の死に目に会えなくなるからって。
逆に「縁起がいい」・・・なーんてね。誰が言い出したのかな。

とても、重厚なデザインに美しい装飾。

最近は、あの、お祭りの山車タイプ(宮式というそうです)を見かけることが少なくなったようです。

ひっちゃんを乗せてあげたくて、葬儀屋さんに聞いたら、あのタイプ、「料金上乗せ」なんですよ!
で、レザートップのベンツベースの黒い霊柩車にしました。
おたまのことを「けちん坊」と思わないでください。「空いていない」といわれたのです。「空いてない」ってどういうことやねん。よくわからないまま、なが~~いベンツになりました。

車は色々乗り換えて、最後はベンツにでも乗ろうかいガハハ。と言ってたのが、シャレにもならんですわ。

ま、おたまのときはシンデレラの夢のお馬車でしゃんしゃんと♪なんていいですね。
「あっ!死んでれら!」なんてね。

おじいちゃんの時は当然、キンキラキンの霊柩車でした。

ソーダ会社の相田さんがソーダ飲んで死んだそうだ。葬式饅頭くれないそうだ。

なぜか葬式饅頭は「ソーダ入り」と信じていましたが、炭酸入り饅頭なんぞ食べたことない。

お世話になったご近所にはやはり「葬式饅頭」をお配りしていたようです。
数日後に表方の人と裏方の人に分けて振る舞いがあったとおもいます。死んだ人の話をしながら、よい供養になったのでしょう。

おたまは、1日、2日忌引きで学校を休みましたが、登校するとちゃんとクラスに「粗供養」の帳面が配られていました。
葬式の世話役さんがこんなところまで手を廻して行き届かせておられたのです。

おたまの筆箱にいっつも手紙をいれる男子が「おたまちゃんにもらったノートやから使わずに大事にする」といったので、
「そんなことエエから、勉強せえよ!」といいました。

こんな、汚い乱暴な言葉はコイツにだけです。
その子もわりと早くに亡くなりました。

おじいさんの店は学校にも出入りしていたので、朝礼で校長先生がお話をされたようで、先生や皆に声をかけてもらいました

今までの、お話はいまから、うんと、うんと昔のことです。

お葬式もずいぶん様変わりしましたです。
我が家のあたりでも、自宅はもちろん、自治会館の利用はほとんどなくなりました。
玄関に「忌中」の張り紙を見ることもないです。

スマートで綺麗な葬祭会館で、そこのスタッフさんが何もかもやってくださいます。遺族は「泣いておけばいい」だけで、近所の人は「参列すればいい」だけです。

話に出てくる、畑の真ん中にぽつんとあった焼き場は、現在素晴らしくりっぱな市営の火葬(斎場)会館になっています。
中に入ると、ここは一流ホテルか!てなかんじで、吹き抜けで、おされな造りになっとりました

先日、母を荼毘に付したところです。

周辺に大きな道路が通り、
我々(おたま、はるちゃん、タナカ、やっちゃん)が大根を盗んだ失敬した畑はなく、
防空壕ごっこで探検した野原もありません。

学校から見えていた煙突はどのあたりかわからないくらい家が立ち並びました。会館には煙突そのものもありません。

「男の人がお○ん○んを出してはる~」
自転車を漕いで、泣きながら、はるちゃんがやってきた、蓮池のあたりは、おもかげすらありません。

はるちゃんも、そんなものには動じない肝っ玉レディになりました。

何かもう、昔昔のことになってしまいました。

長々と読んで下さり有難うございました

                 (おしまい) 



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2012年1月26日 (木)

おじいちゃんの葬式⑦



当時(1965年)
おじいちゃんの家の近くに広大な蓮池があり、
レンコ(蓮根)堀りの舟がつないであったり、ショックン(食用カエル)を高級料亭から捕まえに来たり・・
大人になった「俳人」おたまからすれば、垂涎の風景なのですが、万博の頃に埋め立てられ、大手開発会社の分譲地となりました。

「そのうち地盤沈下で家がズボズボになって引っくり返る」と地元の人達はささやいていましたが、まだ、建っています(今のところ)

この池を大きく周って一つの字を抜けたところに「焼き場」がありました。
見渡す限りの畑のなかにそれは、ポツンとありました。

高台にある、小学校や中学校から焼き場のえんとつがよく見えました。休み時間や体育の時間に煙が昇っているのをよくみました。
「ああ、今、人を焼いてる」って思いました。

火葬炉は一つだけ、それも、屋根の無い野ざらしのところだったと記憶しています。あたりの畑の風景といい、古いレンガで作られた炉といい、何となくわびしいものでした。

おたまは、今でも、こじゃれたイタリアンの店なんかでわざわざ、ピッツァの焼き釜を客に見せるようにしてあるところでは、おじいちゃんを思い出します。

アノ頃って、重油をかけて焼いたのですかねえ。
ガスバーナーはもっと後だと思うのですが・・
時間がかかったのかなあ・・。一度、家に戻ったのかなあ・・。そこのあたりはよく覚えていません。

今は自治体の衛生課斎場職員というのでしょう。
当時、おとなたちは「オンボはん」と呼んでいました。
オンボとは隠亡のことであり、遺体を荼毘に付す仕事をさします。差別用語として今では使われない言葉ですが、当時の事実として使わせていただきます。

オンボのおっちゃんは小柄な人で、骨になったおじいちゃんに手をあわせてから、お骨の説明をしてくれました。
「このお方は、肝臓がお悪かったんどすな」
骨は、白く美しく焼けていたのに、肝臓の部分は炭のように黒くなっていました。

そして、足の爪先から順番に、お骨を一片ずつ骨壷に入れてくれました。
これが、膝のお皿、これが尾てい骨・・・これがあばら・・
カサカサという乾いた音がしました。

ある程度入ったら、親族一同のお骨上げです。
一人が竹の箸、一人が木の箸。二本の異なる長い箸を両方から使っての「挟み箸」をします。

おたまは、肝臓部分を挟もうとしたら「そこはエエから・・」といわれました。
最後に、オンボはんが、「これが、のど仏です」といって皆に見せてくれました。
なぜか皆「おおお」と声をあげます。
そして、壷がいっぱいになったところで、頭のてっぺんの頭蓋骨を乗せました。ホンマに、頭の蓋の骨やねんね。

オンボはんは、骨壷の口の大きさにあわせて頭蓋骨のふちをパリンパリンとわりました。

おたまは、今でもタコせんべいを食べる時、おじいちゃんの頭蓋骨をおもいだします。
優しかったおじいちゃん。「えべっさんの子やから商売に向いてる」と喜んでくれたおじいちゃん・・・。
おたまは、お金を使うばっかりで、よう儲けませなんだ~~~。許してください。

ひっちゃんの両親。ひっちゃん。2・3の親戚と、その後骨あげを経験しましたが、このときほど、丁寧で心のこもったものはありませんでした。

オンボはんの死者に対する姿勢の違いといえば穿ち過ぎでしょうか。

この話も今日で終りたいので、少し長くなりますが続けます。

機嫌よくついてきてください。

あ。やっぱり明日にまわします。



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2012年1月25日 (水)

おじいちゃんの葬式⑥



伯父の家(葬儀会場)は角家でした。
塀の周りにずらりと「お樒」が立ちました。

もう、こんな光景は街では見なくなりました。

お樒(しきみ)は、2メートルくらいに束ねた樒を白い布で巻き、「○○より」などと書いて家の外に左右一対で立てかけます。樒は強い毒性があり、死体の臭い消しだと聞きました。ドライアイスの無い時代の人々の知恵でしょうか。

1985(昭和60年)の舅(ひっちゃんの父)の葬儀には、まだ、樒は立っていました。
今は、葬儀会館の中などに献花、供花として生花が飾られることが多いようです。

もっと小さい頃に住んだ博多では、黒いリボンを掛けた造花の「花輪」だったような気がします。そうそう。パチンコ屋さんの開店祝いの「黒バージョン」です。(博多の方、求む!情報)

「さすがまるいっつあんやなあ。エラいもんや」と、どこぞのおじさんが樒の数をを数えながら、いいました。

おじいちゃんを「まるいっつあん」と屋号で呼ぶのはもう古い付き合いのひとで、せっかく手広くやっていた商売も、M兄ちゃん(母の末弟)が潰しにかかっているところでした。

当時M兄ちゃんは22歳。
19歳で貰った嫁に逃げられ、
≪1日(きっしょ)に集金に行った≫といっては客に「商売のイロハも知らんのか」と怒鳴られ、
悪友は麻雀に誘いに来るし・・・ふわふわ、ふらふらしていました。

商売を嫌って、お堅いサラリーマンになった長兄は口も出せず、出す気もなく、「おじいさんは、いい時に亡くなった」などと言っていました。

おじいちゃんの碁仇でもあった、寺の「おっさん」(住職をそうよびます)は死に掛けてはりました(坊さんも人間です)

寺の跡継ぎは、ウチのM兄ちゃんのツレで、まあ「類は友を呼ぶ」系ですわ。
それで、誰が言い出したか「あんな、頼んないのん、あかんで。」と言うことになり、別のお寺から来てもらうことになりました。

その、寺選抜の基準は・・

「あそこの、おっさん。
    みば(見栄え)がエエから晴れ立つし・・」

躯体がいいという理由でお寺さんがやって来られました

そういえば(又話がそれますが)
おたまの舅の葬式の時、おばあちゃん(姑)はあわててはったのでしょう。別のお寺に電話を掛けてしまい、やって来たのは見ず知らずのお坊さんでした。

「え~~っ御宅なんか知りませんで」ともいえず、そのお方に一切をおまかせし・・・結局、付き合いのあるお寺では、うちの舅さんはまだ、死んでいないことになっていますの。でへっ。

お寺ってよう似た名前が多いし、やってくれることも一緒やし、いいのと違いますか。

今日は、焼き場から、葬式饅頭の話で終るはずでしたが、なんだか、書いていたら長くなりました。

では、明日は、ホンマにおしまいです。なんてね。



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2012年1月24日 (火)

おじいちゃんの葬式⑤



葬式の話で、こんだけ引っ張るかっ!
と、自画自賛、自縄自縛、自重自戒、自暴自棄、のおたまです。

しかし、何ですね。
昔は近隣のつながりが深かったんやね。
うちの、おじいちゃんも、相当な世話焼きやったけど、それはお世話もしてもらっていたということです。

で、夜伽(お通夜)ですが、
お寺さんが帰られたあと、ご近所のオバサンたちが交替で夜通し「御詠歌」をあげてくれました。

中心になるのはFというオバサンで、当時60歳くらいかなあ。この方はヤケにおたまを可愛がってくれたので強く記憶に残っています。

TさんがFおばさんの一番弟子で40代後半。あと数人の人がいましたが、皆女性でした。御詠歌は女の人があげるものなのかなあ・・。わかりません。

おじいさんの家は浄土宗だったので、鈴や鉦鼓を用います。
その昔、文字の読めない人が多かった時代は、仏の教えをこのように歌にして口伝したのですね。
ウィキペディアによると、人々が「何かにつけて」集っては御詠歌をあげるのが、騒音による近隣の苦情により衰退していったとあります。

まあね。わからないでもないけど、世知辛い感じがしますわね。世の中におおらかさがなくなっていった、みたいなね。

そうそう、そういえば、ウチのお寺さん(現在)の奥さんに「御詠歌サークル」に入らないかって誘われたことがありましたわ。

「おたまちゃん。サークルに入ったんやてなぁ。何のサークル?」って人に尋ねられたとき、
「うん。英会話やねん」とか「テニスやねん」とか大きな顔して言えるけど、

  「御詠歌やねん」

ってっちょっと、言いにくい光り輝く30代でしたの。

いややわ。そんな抹香臭いの・・・

と口には出さず、お断りしたのだけど
「週に一回カラオケに行くつもりで、お寺にいらっしゃい」といわれました。ま、本堂のキンキラキンがミラーボールに見えないこともないわね。

お台所には、これまたご近所の主婦が大勢詰めかけ、皆さん白い割烹着姿です。
伯父の家(葬儀会場)はお茶の接待やお燗の用意くらいで、煮炊きなどは、お隣のお台所を使わせてもらいます。

どこかの家で葬式がでたら、当然のように、こうしてきびきびと近隣の人が協力して、立ち働きました。

おむすびは、白飯だけの三角形。
コンニャクもも高野豆腐も全て三角形に揃えられました。

おじいちゃんのデボチンの三角布のようです。

あらめの煮物は「やれかなし」といって葬式にはつき物の料理です。
あらめは、ひじきに似ていますが全く違うものです(どっちやねん)
葬式ではないけど好きなのでよく、炊きます。
「やれ悲し」という、とっても「詩的」なネーミングはどこから付いたのでしょう。

このように、夜を徹して通夜が執り行なわれ、若干のお祭り気分が町内にただよいます。

おたまたち子どもは、寝なければなりません。

50メートル離れたおじいちゃんの家に戻り、日頃逢っていない「いとこ」たちとどこかうきうきした気分で、お布団をああでもない、こうでもない、誰と誰が寝る?なんていいながら、自分達だけで敷きました。

いよいよ、明日が最終編でございます
ついてきてや



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2012年1月23日 (月)

おじいちゃんの葬式④



昔のお葬式の記憶を書き綴っております。

①~③読んでくれはりました?
大阪府下の小さな町ではこんな風だったと思いますが

ひっちゃん(おたまの夫)も同じ頃、おじいちゃん(母の父)のお葬式を経験しています。
場所は鳥取県に近い兵庫県の北。山間部です。

ここでは、当時はまだ、土葬でした。

彼の話によれば
≪「棺おけ」ってほんまに「桶」(おけ)やねんで≫

そういえば、「桶屋」さんってありましたよね。
町には専門の「桶屋」さんがあったけど、田舎では自分達の家で「桶」を作っていたようです。しかも自分の棺おけは自分で用意して・・・女性なら経帷子を縫って準備をします。

桶の中でおじいちゃんに「体育館座り」をしていただいて、その桶を前後6名の男の孫が担いでの葬式行列です。

装束は大体ウチのおじいちゃんと同じようなもので、やはり、おでこには「あの」三角のトレードマークを貼り付けてあります。

担ぎ手も、これまた白装束にわらじ履き。6年生になる従弟が一番小さくてその次が中学一年生のひっちゃん・・・。
男の孫が6人もいるのは、目出度いめでたいと言われたそうです。

真昼の千種川の堤を長い長い葬式行列が歩いて行くさまは、ひっちゃんにとっても忘れられない記憶だったらしくよく話しをしていました。

それで、ウチのほうのおじいさんですが、おじいさんの友達が大阪の市内からやってきて、布団にすがって泣いてはりました。
おじいさんの友達だから当然その人もおじいさんです。

「まるいち~っ。なんで死んだんや~。死んだらあかんがな~。」って

大阪弁ってこんな時でも何か可笑しいねんね。
「死んだらあかんがな~」って言われてもねえ

で、「まるいち~」って言うのはおじいさんの名前ではありません。
屋号です。ほかの人たちも口々に「まるいちはん」とか「まるいっつあん」とか言ってました。

大阪(市内)時代の「青年」おじいちゃんはなかなか「元気」なお方だったらしいです。
商売仲間で「西尾はんをかくまって逃がしてやった」そうなので、政治に対しても関心が強かったのでしょう。

労働運動に身を投じた「西尾末広」は社会党右派から民社党の初代委員長となりますが、その系譜が今の民主党に連なることを思うとき、ここは働く人のための政治をめざす党であったのに・・・との思いを強くします。

まあ、それはそれとして。

(たぶん)政治にも目を向けていた「まるいちはん」は
心根に「人のために」ということを持っていた人であったらしく、戦時中の皆が困難な頃も含め、人のことでよく動く人だったようです。

おたまが、ずいぶん大きくなってからも、「貴女のおじいさんにはお世話になった」と知らない人からよく言われました。

おじいちゃん自慢になりましたね。
身内で自慢できる数少ない「良い」人なのでお許し下さい。

北枕におじいちゃんを寝かせました。

大人たちは、通夜のことを「夜伽」(よとぎ)。
葬式のことを「葬斂」(そうれん)と言ってました。

「斂」(れん)とは「おさめる」という意味だそうです。

夜伽とは夜を通して死者と共にあること。
もじ通りの「通夜」です。

では、続きはまた明日。

もう・・ええですか?こんな話ばっかり



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2012年1月22日 (日)

おじいちゃんの葬式③



おじいちゃんの友人でもある近所のおっちゃんが、一升瓶の口を切り、まっさらの晒でおじいちゃんの身体を拭いていきました。

下になっている部分には死斑が出ていました。

昔の人は、こういう死体処理のやり方や作法をどこで学んだのでしょう。
子ども心に「戦争に行ってはる人はちゃうなあ・・立派やなあ」と思いました。

当時も「葬儀屋」さんはあったし、その方たちにおまかせすることもあったのでしょうが、おじいちゃんは仲の良かった友人に大好きなお酒で身体を清めてもらい満足だったと思います。

動作が美しかった。
言うときますが、おっちゃんは「おくりびと」ではありません。普通の近所のおっちゃんです。

「赤本」というのがございますね。
(旺文社の受験参考書と違いますよ)

民間療法のバイブルといわれ家庭における医学の手引きになっているほうの「赤本」です。
著者の築田多吉という方は日露戦争の頃の軍医では無かったかと記憶しています。
この本の改訂版を読んだのですが、それはもうすばらしい。
医者も病院も少なかった時代にこういう英知がどの家庭にも浸透していたのですね。もちろん、死体処理の項目もありました。
昨今の健康ブームで取り上げられる様々の療法の大方はこの「赤本」から出ているともいわれます。

話が寄り道ばかりしていますが・・

おじいちゃんは白装束を左前に着、おでこに白い三角の布を当て、手っ甲脚絆をつけてもらっています。
頭陀袋を首から提げ、杖も持たせてもらいました。わらじもはいて、

あの世へ旅立つコーデの完成です。

「子どもは、ちゃんと見ておくんやで」といわれ前のほうに押しやられました。
言われなくても身体髪膚120%好奇心のおたまは最前列です。

デボチンの三角布が可笑しくって可笑しくって・・

どうして、こういうときに限って笑いがこみ上げるのでしょう。おじいちゃんのことが大好きだったのに・・・

この、バタフライ三角の布は「天冠」と呼ばれ「高貴」を意味する正装のしるしなんだそうですよ。

六文銭も持たされました。三途の川の渡し賃だそうです。
そんな処でも商売してるんやと、これまた可笑しくって・・

通夜と葬式は、おじいちゃんの家から50メートルほど離れた長男(母の兄)の家で執り行われました。

ふすまや障子が取り払われ、室内には黒白ストライプの幕が張り巡らせてありました。

ちょっとぉ・・奥さん知ってはる?

今、この黒白ストライプ幕のことを調べましたわよ。

「鯨幕」っていうんですって・・。
本来日本では弔事に「白」が用いられたが西洋文化が入ってくると、弔事=黒も取り入れられこのような幕になったそうです。
皇室では慶事のときもこの幕を使うそうですよ。

ブログを始めて、二年と三ヶ月。記事数595件にして初の「お役立ち情報」とちがいますかっ!

そうでもない?
いいでしょう。
別に貴方様のお役に立ちたくてブログやってるわけではございませんのでね。

で、おじいちゃんは本家(息子の家)に運ばれるのですが、通夜の時点では、まだ、お棺の中に入っていなかったような記憶があります。じゃあ、納棺は何時したのでしょう・・・よくわかりません。

では続きは又明日。



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2012年1月21日 (土)

おじいちゃんの葬式②



おじいちゃんの家につくと、おじいちゃんはもう
死んではりました。

おじいちゃんはその日、淀の競馬に行き、帰宅後風呂に入り、「ひょっこりひょうたん島」を見ながら、イカのお造りで晩酌をし、上機嫌でお寝間に入りしばらくして、おばあちゃんが気がついたら死んでいた。

というふうに、おたまの記憶データにあるのですが

ここで、一つの疑問があります。
この日は競馬があるくらいだから日曜日です。だって、我々はお花見に行ってました。「日曜日」にひょっこりひょうたん島を放送していたのでしょうか。
世間が完全週休二日制を導入するウンと前の話です。
よって、土曜日は半ドンで、花見や競馬に行くなら日曜だったはずです。

≪検証≫せねばなりますまい。
wikipediaへ行ってまいりましたよ

ひょっこりひょうたん島 
  放送期間 1964・4・6~1969・4・4
  放送時間 月~金 17:45~18:00

そうです。おじいちゃんは「あの日」ひょっこりひょうたん島を見てはいなかったのです。

可哀想な、おじいちゃん。

おじいちゃん宅、到着の場面に戻ります。

かかりつけの病院の先生も帰られたあとで、ざわざわと人が出入りしていました。
いつも玄関にいる飼い犬の「ジェス」が裏のイチジクの木の下にくくられていました。
ジェスは賢い犬でよく一人(一犬)で散歩をしていました。
当時はおもむろに犬が散歩していたものです。

たいていは、駅前のおじいさんの店や事務所に通勤していたようです。

道でばったり出会うと
「おうっ!おたまちゃんか」みたいな顔をしました。

「ジェス。ちくわ買うたろか」というと尻尾を振ってついてきました。
お菓子やらちくわやらタワシやらを売っているお店で、確かちくわ一本5円だったと思います。いや、10円だったかな・・。
今でいうたら、コンビニやね。
いうても、店番は脱サラのオーナーやアルバイトのお兄ちゃんではなく、一日の大半は座りっぱなしのおばあさんでした。

ジェスはその場で決して食べません。
ちくわを咥えると一目散に家に走って帰ります。
あとから、おたまが追いつくとジェスは自分の小屋の前にちくわを置き「お座り」をして待っています。

ジェスが待っていると思うと、おたまも全力疾走です。
バタバタバタ。

「おあがりなさい」というまで決して食べませんでした。

M兄ちゃんが拾ってきた雑種でした。
というか、犬は雑種が普通で拾うか貰うが普通でした。

今、雑種犬を拾いたいと思っても、そんじょそこらに落ちていません。

ジェスはおじいちゃんが亡くなった何年か後になくなり、裏のイチジクの木の下に埋めてもらいました。

動物霊園などというものは無かったように思いますし、そんな発想(霊園につれてゆく)も無かったと思います。

そうそう、ジェスの葬式ではなくて、おじいちゃんの話でしたね。
では、また明日。



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2012年1月20日 (金)

おじいちゃんの葬式①



1965年(昭和40年)4月のことでした。

今から何年前?恐ろしく昔やね。

この日、おたま一家は、歴史学者やえらい先生がこぞって反対してメッチャ怒ってはった、「伏見桃山城」で花見をしていました。
前年の昭和39年に再建されたこのお城は、電鉄会社がお金を出して建てたものです。その名も「キャッスルランド」(ベタやなあ)ジェットコースターや観覧車があり、夢の国のようでした。
もちろん。テーマパークって言葉はありませんでした。

花見メンバーは、母、おたま、若い衆数人。最近生まれた赤ん坊、その若い両親、おとなりのレイコちゃん・・総勢10名ほど。
仕出し屋で重ねのお弁当をとって、花茣蓙のうえに広げ、それは華やかなものでした。

ブルーシートなどという無粋なものが出回ったのはいつの頃からでしょう。

おたまはなんと「お嬢さん」と呼ばれていました。
お坊ちゃんではないのでお嬢さんには違いがないけど
何だかねえ。

後にも先にも「お嬢さん」と呼ばれたのはこのわずかな時期だけです。
もっとも、今「お嬢さん」と呼ばれたら
「喧嘩売ってるんかいっ!」と凄まなければなりません。
「お嬢さん」と呼ぶ人がいるわけも無いので無用な心配はやめておきます。

それにしても、みのもんたは失礼な男だ。

このときの写真があります。
タータンチェックのスカートに若草色のカーデガン
少し酒井和歌子入ってます(もちろん顔以外)

週刊マーガレットをお小遣いで買い(50円)
外国人女優のピンナップを収集し
お気に入りのパティデュークショーを白黒TVで見る、ありふれた女の子でした。

そして、その夜、母の末弟のM兄ちゃんが車で迎えに来ました。
おじいちゃんが(母の父)が危篤とのことです

おじいちゃんは今、生きていたら118歳。
このとき数え年で72歳だったわけです。
おたまが、子どもだったからかも知れないけど、ものごっつう「おじいちゃん」でした。いつも和服を着ていました。

鬼の孫からは想像もできないけど「ほとけさん」と呼ばれてはりました。

その一週間前、ひょっこりと和服に雪駄のおじいちゃんがバスから降りてくるのを二階の窓から見つけました。

なくなる前にあちこち、お別れに行くというのは本当のようです。
後々の話では、ただ単に淀の競馬の帰りに寄っただけという話もありましたが・・・(当時おたまたちは宇治に住んでいました)

その日、片道一時間半のおじいちゃんの家まで送っていきました。
おじいちゃんちの近くの学校に通っていたので通学定期券がありました。
おじいちゃんは100円札を三枚くれました。

記憶の限りでは、「初めての葬式」を書き留めておこうと思います。

では又、あした。



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2012年1月18日 (水)

荼毘



母が亡くなりました。
本日荼毘に付して参りました。

生前の話の通り、通夜、葬式はせず、
骨も拾いませんでした。

さばさばと、彼女らしい終わり方です。

俗世の垢まみれの娘は、極楽行きのパスポート(朱印帖)をもたせ、ユニフォーム(朱印の法衣)を着せました。
(だって、あの世に行く時着る物がない!って言うから、お四国回ってもらってきたんだもの)

さらに、クリスチャンの兄は友人の牧師を呼んできてお別れの祈りを捧げてもらいました。

ウワサには聞いていたけど、アンパンマンにそっくりの牧師さんで

このシチュエーション(和洋折衷?)とアンパンマンに
もう、本当に我ながら情けなくなるけど・・笑いをこらえ切れませんでした。

こういうのを、直葬(じきそう)っていうらしいです。

これからのお葬式を考えておられる方のために
って・・・・大きなお世話やね。

自分の覚え書きのためにまた少し、書いておきます。

葬式(?)ってこれでいいんや!
と、ちょっと、目からうろこでした。

息子達も、同意見でした。

良い、お別れが出来たとおもいます。



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2012年1月15日 (日)

ケ・セラ・セラ



この世は思う通りになるし、
思うようにならない。

しかしながら、結局はなるようになるのだから
それが、思い通りであったとしておくほうが
幸せというものであろう。

なんてね。

ああ、思いは二つ。我が身はひとつ・・

長男平凡氏がおっしゃるには
「妻の出産予定日前後に出張予定が入っているので、おたまちゃん。よろぴくね

どひゃ~~

わて
「貴方の妻の出産予定日前後に歌舞伎のチケットをゲットしてますねん。しかも2日間」
とは、よう、言いません。

こういうことって、
後を引くねんで・・よう覚えておきなはれや。
あのとき、姑は遊び呆けて力になってくれなかった・・・なんてね。
怖いよ~~。

しかしやね、産むのは真綿嬢や。
姑に何ができましょうぞ。
松岡修造氏のように励ましてあげてもいいですがね、
うるさかろう。

初めてのお産→不安→心細い→そんな時こそ・・
そばについていてくれて、心強い人。

頼りになる人。任せて安心の人

  ≪JAF≫  のお兄さん    

8139(ハイサンキュウ)♯で来てくれるだろうか

だからね、「実家にお帰り」って遠まわしに・しつこく・くどく、何度も言ったのに・・
今のところ、彼らの家から産院へはタクシーを使う予定になっています。
そして、真綿嬢には「刷り込み」を開始。

「真綿さん。昔はね
  野良仕事の合間に田んぼのあぜ道で
           赤ん坊を産んだものですよ
。」

って、見たんかいっ!

それくらい、案ずるに足りないってことさっ!

一時の愉悦を取るか、一生のブーイングをとるか

まあ、そのときは、そのときだわね。



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2012年1月13日 (金)

あいちゃんの夢



「初夢」は新年の季語にもなっています。
吉夢を見るために、宝船の絵を枕の下に敷く風習があるそうで、「宝船」「宝船敷く」というのも季語にあるのですよ。

元旦の夢に人々は吉兆を頼んだのかもしれません。

昨日の初句会の席で「初夢」の話題になり
あいちゃんが、興味ある話をしてくれました。

あいちゃんは、おたまより三つくらい年上の四国の方です。

 

昨年暮れ「自分が死に掛けている」夢をみたそうです。

床についている自分の周りを田舎の同級生がぐるりと取り囲んでいます。
同級生と言っても一クラス20人ほどが一緒に大きくなって、大きくなっても「誰それの兄さんに嫁いだ」とか「どこ其処の妹を嫁に貰った」とか、ほとんど村中が、幼馴染であり親戚みたいなものだそうです。

夢のなかで、あいちゃんは「みんなが来てくれてる。ここは一つ死なにゃあならん」と思っているのですが、なかなか、死ねないので少し申し訳なく感じたそうです。

気がつくと、右の枕元に「さっちゃん」という男の子が座っています。
他の同級生は入れ替わり立ち代りばたばたしているのに、さっちゃんだけはじっと座っています。

さっちゃんは、いわゆる皆と違った発達の仕方をした子でした。「異型の相貌」で、村の外では苦労はあったかもしれないけど、同級生の中では「さっちゃん」として認められていました。

お父さんが誰だかわかりません。
一夜を貸したお遍路さんの子だろうといううわさでした。

(宮本常一の世界ですわ)

そのさっちゃんが座っているのです。
そして、さっちゃんは間違いなくさっちゃんなのですが、
見慣れたさっちゃんではなく、ものすごい「男前」なのです。
あいちゃんは、「さっちゃん。痩せたん?頭がちいさくなってる」といいます。
さっちゃんは、きらきら光っていて、ものすごく男前だったそうです。

そして、元日の朝。
同級生からの電話です。

 

「さっちゃんが死んだ」

 

お別れに来てくれたんやね。

 

句座の仲間みんなで、うなずいたことでした。

Sany0045

マーニャ(って誰?)から一言

 

自分が死ぬ夢は多くの場合、「運勢の向上」を暗示するといわれます。
あいちゃんのケースは死に掛けてはいたものの、死んだわけではなく、これはもう、さっちゃんの魂の呼び掛けと考えてよいのではないかと、思いますです。

 


 


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2012年1月12日 (木)

初句会



今日は初句会でした。

京都の奥座敷、湯の花温泉・烟河へ行きました。
(けぶりかわ)って読みます。
メッチャ、頭ひねって名づけはったんやろね。

ここは、旧亀岡ハイツといい、おたまの記憶が正しければ、もう信じられないくらいの大昔に、労働組合(懐かしい!)で動員されて宿泊研修をしたところではないかしらと思っています。

そういう類のための施設で、ユースホステルみたいなつくりで、研修棟には二段ベッドが入っていた??
京都府かどこかの公共施設だったような??
ひょっとしたら、全然違うかもしれません。
どなたか、知っている方教えてください。

って、別にものすごく知りたいわけでもないので、貴方さまが何も知らなくても全然かまいません。決して責めているわけではありません。
もう、ほんと、気にしないでください。

現在の烟河は「里山の休日」と銘打って四季折々の会席料理が楽しめ、日帰り入浴もできます。
って、きょうはここの宣伝をしたいわけではございません。

句会です。

ああ、その前に、一人ずつ年頭のご挨拶&決意表明やね。
おたまは、「締め切りにばたばたしません」と言いました。
去年もそういうてたよ!

次にとりあえずビールです。
たたみかけるように熱燗です。

地元の大石酒造の翁鶴をいただきました。
たいへん、結構でございました。

この、大石酒造には、知る人ぞ知るイケメンがいらっしゃいます。
金曜の夜、関西の健全なるご家庭は必ずチャンネルをあわすという、「探偵ナイトスクープ」

この、名番組の輝ける歴史の中でも三本の指に入るとおたまが思っております、名作「マネキンと結婚したい」の彼がここにいらっしゃるのです。

運命の出会いをした娘さんが結婚をするのですが、お相手がマネキンだったという到ってシンプルなお話です(と言ってもかなり前ですが)

爆発卵。大和川を下る通勤。坊さんが放屁のために集う話。に勝るとも劣らない感動編でした。

(なんかユーチューブで見られるらしいです)

で、そこのお酒が美味しかった話でしたっけ?

句会です。

今日は、おたまが司会を仰せつかりました
好き放題に話を振れるので好きな役割です。

今朝寝床の中であわてて作った割にはよい成績でした。うふっ。

 兼題/鏡餅・福寿草
どちらも「新年」の季語です。

 「臨月の嫁良く笑ふ鏡餅」 おたま

 「一人居に戻りたる庭福寿草」 おたま



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2012年1月11日 (水)

十ヶ月経ちました



ようやく収束に向かっているらしいです。

いやね、吉永小百合ちゃんの話なんですがね

こんな、つつましやかな、野に咲くすみれのような、
純情可憐で、けなげな

「おたまのブログ」

昨年末から年初にかけて「吉永小百合」という検索ワードで多くのアクセスがありました。
その数、今見たら246件。
関連する語彙での検索を足したらもっと増えます。

12月半ば発行の某週刊誌記事に触発されたもののようです。

熱愛・破局・裏話・・・根拠の無い推論や暴露・スキャンダルに飛びついちゃう愚かさについては、
人のこと言える立場に絶対無い!おたまですが

「有名税」というにはあまりにも小百合ちゃんがお気の毒。
べらべらしゃべるアイツがますます嫌いになったわさ。

ベーキングパウダーを1tほど投入して原色のペンキを塗りたくった記事もメタンコ腹が立っています。

そして、ネット検索で「おたまブログ」にお出でになった皆さま、お気の毒さまでしたわね。

おたま、吉永小百合ちゃんの記事なんか書いたこと、一度もないわい!

引っかかりがあったとすれば、相当以前に、ふぁ○ん○す氏のコメントに端を発する2・3のやりとりだけなんですけどね。

それにしても、年末にお亡くなりになった内藤陳様。
あれは「憤死」だったのではないかと思っているのでございます。

今日は11日。忘れてはいません。

収束は収束でも、野田総理の収束宣言に

開いたおちょぼ口がしまらないぜということを書こうとしていました。

寄り道しすぎて、それこそ、収拾のつかない記事になってしまいました。ごめんなさい。

小百合ちゃんの件は収束にむかっています。
間違いない。
興味本位のぺらぺらの話だからです。

人のうわさも49日75日といいますが、
そうやって、忘れられていく話のひとつでしょう。

「忘れる」ということは人間にのみ与えられた脳の作用だそうです。
忘れられるから生きてゆける。
そういうこともあるでしょう。
自分自身を振り返っても大いにうなずけます。

でも、ずっと忘れないでいたいと思っています。
10ヶ月前の11日に起きたことを。

あらためて
震災により亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
そして、被災に遭われた皆様へ心からお見舞い申し上げます。

・・・・・・・・・

   Nanntei
          「忘れないということがいちばん被災者を励ます」
        阪神大震災を経験した精神科医、中井久夫さんの言葉です。

       (このバナーはNANTEIさんの制作です)



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2012年1月 9日 (月)

タンタンタンタン誕生日



今宵は満月
とても美しい夜ですわ

地球上の、津々浦々のみなさまいかがお過ごしでしょうか。

おたま、明日が誕生日ですねん。

綺麗なお月様を見ながら
生まれる前に思いを馳せていますの。

昼ごろ実家から戻ると長男夫婦が来てましたの。
「海老」を持って

「海老」

そ!「鯛」を釣る「海老」ですわ。

おたまね、元々、こんな、こ憎たらしいことをのたまふ女じゃないねんよ。
でもね

バースディケーキと一緒に「乳母車」のカタログ渡す?ふつう!

メチャ、わかりやすい交換条件やとおもいません?

などといいつつ、
美味しくケーキをいただきました。

1219_055_copy
個人情報保護法制定委員会のご指導により、一部画像を修正しております。
目を細めてもロウソクの数は数えられません。

そのうえ、ちょっと上等のお肉なんかで「ポトフ」なんか作ってやりました。誰の誕生日やねん!って声を大にして言いたい。

肝心のリクエストしていたプレゼント(歌舞伎のDVD)は後日らしいです。

どうせ、価格ドットcomなんかで「最安値」調べてておそくなったんやし・・きっと。

で、それをわざわざ持って来たったでとか言うて
又、ごはん食べて帰る気や。

おたま、最近忙しくて、「心が汚れてる」かしら。

でも、平凡夫妻にハッピバースディと歌ってもらい

万歳三唱をしてもらって、

今、乳母車のカタログを食い入るように見ているところですねん。



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2012年1月 7日 (土)

名づけ



お正月に生まれたエミリーの孫の名前はまだ無い。
Aちゃん(エミリーの娘)。
とつき十日も時間があったんやから早くから考えておいたらいいものを・・・

何個か相談があった。
実は、おたま、胡散臭い特技(?)を持っているのです。

しかし、わたしゃ「中山寺」ではない。名づけの看板は掲げていないっす。

名前は子どもへの最大のプレゼントなのだから、両親がつけるのがよろしかろうと思います。

子どものころ、近所に「たっちゃん」という男の子がいて、
何でも「辰年」生まれの「たっちゃん」ということでした。

今年は年男やね。
おたまと遊んだくらいだから・・・36歳になるねんな

でも、こんな名前だと将来、年齢詐称は出来へんわね。
まあ、詐称する人生に問題があるわけやけどね。

母の末弟は「勝」(まさる)。
母の長姉の娘は「勝子」(かつこ
どちらも1943年(昭和18年)うまれ。
クラスメートには「勝利」(かつとし)が2名。
「軍」(いくさ)という友人もいたそうです。

名づけって時代を反映するねんね。

 「騎士」(ナイト)君の哀しみは
       「星」(スター)君しかわからない。

キラキラネーム
っていうそうです。親もよう考えてやらないかんわ。

実は、エミリーの娘Aちゃんが最初に持ってきたのも

キラキラネームでした。

怒ってやりましてん
あなたは、「元ヤン」ですか?って。

親やったら、もっとちゃんと考えてあげっ!

ウチの長男平凡氏の本名ですがね。

テレビのプロレス中継見てて、ノリでつけましてん。

テヘヘッ 

しばらく、本人にはナイショにしてたんですけどね
隠し事の出来ないひっちゃんがポロリと漏らしよりましてん。

平凡氏12歳の春のことでしたわ。

Noha_070_copy
私は「真由」です。



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2012年1月 6日 (金)

相棒



正月某日。
木を見て森を見ぬ「ヨメ」真綿と
森を見て木を見ぬ「シュウトメ」おたまが

「相棒」三昧しておりました。
真綿さんって、やたら伏線チェックをしていたり、グラスを持つのが左手だったことなんかを覚えているのだけど、最後まで犯人にたどりつかない。

その点、おたまは二時間半スペシャルの前半25分くらいで、ほぼ目途が立つってもんです。もちろんどんでん返しも踏まえております。

ヨメよ!100年早いゾ。ハッハッハ

ってなもんですわ。

時々「どんでん返し」返しをやらかしてくれるので、そこまでひねくれていない人間としては、はずすこともあるけどね。

そして、もっぱらソレばっかりやけどね。

で、ものすっごくエエところで、電話なんか掛かってくるねんね。

「生まれてん
「はいはい。おめでとうさん」

と、ものすっごくぞんざいに電話を切ったけど・・・

「????」
「何が生まれたん?」

と、掛けなおしました。

エミリーの初孫です。
予定日より二週間以上も早いけど、母子ともに健やかで、良かった良かった、一安心やね。

「感激で胸がいっぱいで泣きそうやわ」と餅を食いながら言いますと。

「はいはい。ありがとうさん」

と、ものすっごくぞんざいに返事されました。

「相棒」に戻ったけど、もう話がごっつう展開してる。
え~~。この人、アノ人とナニやったんと違うのん?

じゃあ、アノ人がこの人のナニやったんかぁ~

「やっぱり、ずっと見ていないとわからんですね真綿さん」と見れば、極めて曖昧な作り笑顔

真綿嬢、ずっと見てたのにわかっていないみたい。

もう、右京さん。締めのTeaを飲み始めてるのに・・・



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2012年1月 5日 (木)

お初づくし



(初読み)

例年の如く「寒山拾得」読了。所要時間5分。

己を恥じ。戒める。なんちゃって。

(初到来)

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荒ぶるおたまを鎮める。ドゥドゥドゥいい子だ
甘く懐かしいチョコ

(初おまけ)

1215_004
この会社はどこに向かっていこうとしているのだ。
孫さんブラボー。

(初買い)

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買ったのは、豆腐とワカメではない。
しかも、つるっとなめらかな・・・

園芸店のおっちゃんがこの箱に入れてくれた。
なかなかなので、鉢として利用できないか考え中。

(初雪)
「初」でもないか!積もったのは「初」だな。

昨日、15分間でこんだけ積もった。

以上でした。



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2012年1月 4日 (水)

計算では・・



 

一億円当たった!・・・・・・・・                          

 

半分あげる

 

と言ってくれる。孝行息子よ!

母は嬉しくて涙がちょちょぎれます。

今更、そんな大金は要りません。
使い道がありません。

 

と言いますと・・・

 

「そのお金で有料老人ホームに行きなさい」と優しく言ってくれました

頭金が二千万円。毎月の維持費が20万円で10年間暮らせるそうです。

 

ああ。この子を「公文」に行かせておいて良かった・・・
メチャンコ計算に強い!
我が子ながら・・素晴らしい!

むむ・・・
ちょっと待ってね。

 

おたまは、100歳まで生きるつもりにしているのだけど、その計算(10年間)なら残りのウン十年はどうなる?残りのほうが長いやん

こいつ、親があと十年でお陀仏すると思ってやがる
そうは・・いかんぞ!

「だったら鎌倉あたりで探しておいてね。湘南夫人にあこがれてるねん」
なんて、言っちまったぜ。くわばらくわばら桑原和夫。

正月の帰省は難しいと言っていた次男明星氏に、
「おばあちゃんがいよいよです」とメールを入れたら、
30分後に「今から新幹線に乗ります」と返事が来ました。

 

それが1月2日のことです。

 

明星氏大好きの母は彼を見た途端、良くしゃべり、良く笑い・・・もう、びっくり!

彼は「動くカンフル剤」と命名され、24時間ほどコチラにいて又、東京に戻りました。

 

1月2日がジャンボ宝くじの抽選会だったんじゃないの?
そのうち、老人ホームのパンフレットとお金を送ってきてくれると楽しみにしています。


 


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